⿓⾨司の⼟地そのものがオリジナリティ。 川原史郎さんに聞く、⿓⾨司焼企業組合と⺠藝の道のり。

⿓⾨司の⼟地そのものがオリジナリティ。 川原史郎さんに聞く、⿓⾨司焼企業組合と⺠藝の道のり。

「IEGNIM(イグニン)」が贈る⺠藝シリーズ「ミライのミンゲイ」。第13回⽬は⿅児島県で江⼾時代から続く「薩摩焼」のひとつ、「⿓⾨司焼企業組合」の川原史郎さんに、⿓⾨司焼の歴史や⺠藝に対する考え、これからのことについてお話を伺いました。

 これまでの「ミライノミンゲイ」記事はこちら

 

川原史郎さんプロフィール

1949 年⽣まれ。⿓⾨司焼の陶⼯であった⽗の元で育ち、三重県伊勢での修⾏ののち、 ⿓⾨司焼を受け継ぐ。厚⽣労働⼤⾂卓越技能賞「現代の名⼯」受賞、伝統的⼯芸品産業 振興協会「伝統⼯芸⼠」認定。瑞宝単光章受章。

⿓⾨司焼企業組合とは

1688年の開窯以来、薩摩焼5系統の一つとして続いている窯。共同窯方式での焼物作りから、戦後に龍門司焼企業組合となり、現在は川原史郎さんと、代表理事で息子の竜平さんやご親族など数名で、地元の原料と代々受け継いできた製法で日用品を作り続けている。

⿓⾨司焼の⼊り⼝。⼤きく「⿓」と書かれた暖簾をくぐるとお店、右⼿が⼯房となっている。

 

⺠藝ブームの頃の⿓⾨司焼。

── 50年以上作陶をされているとのことですが、いつごろから始められたのでしょうか。

「昭和 47 年からですね。三重県の伊勢で3年3ヶ⽉修⾏していました。その頃、昭和 40年代後半から50年代初めは、まさに空前の⺠藝ブーム。盆や正⽉の窯閉め前になると、もう10点あるかないかぐらいしか残っていなくて。同じ九州にある⼩⿅⽥焼でも⿓⾨司焼でも、窯出しの時にはもう半分ぐらい注⽂で出ていくんです。姶良市まで⾜を運んでくれるお客さんも多かったですし。⿅児島の駅などで販売していただけで販路は少なかったですけど、作る量も売れる量も今より多かったです」

⼯房でお話を聞かせてくださった川原さん。
── 作る量が多かったということは、それだけ窯出しの回数も多かったのでしょうか。
「30 ⽇に1 回か1番短い周期で28⽇に1回ですね。登り窯に隅々までうまく器を⼊れて、3500個から4000個ぐらい焼いていました。窯詰めに3⽇、窯焚きに1⽇半かかって、冷まして窯出しするのに2⽇半。30⽇のうち7⽇はそれでなくなるから、23⽇間で品物を作っていました。夫婦湯呑みを⼤⼩含めて1000個くらい作っていたかな。ずっとその繰り返しでしたね」
⿓⾨司焼の5連の登り窯。

── ほとんど休みなく作り続けていたのですね。
「休みはなかったですけど、仕事の雰囲気としてのんびりしていました。窯詰め前までっていうのは、夫婦湯呑みを作る⼈、急須を作る⼈、⿊茶家を作る⼈というように、それぞれ分担して、⾮常に狭い範囲の品物しか作らないので。分担したものを作るだけで⽇にちが過ぎていきましたね。先代たちからは、「膨れたものを作るな。まっすぐしたものを作れ」と⾔われていました。窯にあまり⼊らないものですから、⽫類は少なかったですね」

現在は部屋ごとに作る物を分けている。どこに何を⼊れるか考えながら、 ろくろを挽くそう。
── 今では⼤⽫も作られているかと思いますが、なぜ当時はつくらなかったのでしょうか。
「窯詰めの時に場所を取るというのもあるし、⼟が不向きというのもあります。コシが弱く、へたりやすい⼟なので。あとは技術の問題ですね。⼤⽫になるような、ろくろのかけ⽅を勉強して、今では 50 センチくらいの⼤⽫も作ります。」
⽔差しと⼤⽫。黒地のものは「黒釉青流(くろゆうあおながし)」という龍門司焼を代表する伝統的なスタイル。

 

⿓⾨司の⼟だから作れる唯⼀無⼆のものを。

── ⿓⾨司焼は「茶碗屋」と呼ばれているとのことですが、これも⼟の特性が関係していますか。

「そうですね。⼩⽯原焼や⼩⿅⽥焼を⽫⼭、沖縄も壺屋というように、それぞれ⼟地の名前は多く作る品物に基づいています。⿓⾨司焼はご飯茶碗や湯呑みが多くて、それ以上⾼さのある花瓶なんかは、途中でつなぎを使って作る。そんな感じですね」
── その⼟地の原料ならではの物を作るということですね。
「基本的に⿓⾨司の原料を尊んで進めていくことが 1 番⼤事なことであって、それが有利になるとも思っています。たとえば鮫肌焼(さめはだやき)は原料の種類も少なく、⾮常に簡単な調合なんですね。10 年以上前に美⼤の学⽣が夏休みにここに来て、鮫肌焼を買って帰ったんです。次の年にまた来て、「⼤学で研究して試験を繰り返してみたけど、模様が出なかった」と。やはり原料の性質でしょうね。この近辺で採れる⼟のおかげで作れるものです」

鮫肌焼の茶碗。⽇本でも⿓⾨司にしかない釉薬で作られ、ざらざらとした独特の⼿触りと陽にあたるとキラッと輝くのが特徴。

── そんな魅⼒的な⼟はどこから調達していますか?
「ここから⼤体3キロの⼭の⼟からです。⾃分たちで採ってきて、釉薬にするところまで全部⼿作業で。昔からずっとこの近辺の⼤体同じ場所から採れた原料でやっていますね」

粘⼟作りのための建物。採ってきた原料を粘⼟として使えるように⽔抜きなどをする。
⽔抜き途中の粘⼟。これをろくろで成形して焼いていく。

 

「⼟産物」から⺠藝へ。

── 修⾏に⾏かれている間に、⺠藝や⿓⾨司焼に対する意識の変化などはあったのでしょうか。

「⿓⾨司は⺠藝だという認識は持っていましたけど、外に出ていって他のお店に⾏くと、焼き物だけではなく⺠藝への意識は相当⾼いように思いました。修⾏中に濱⽥庄司や河井寬次郎、棟⽅志功らと会った⾊んな⼈から、その⽅たちの話を聞いたり、師匠や弟⼦とお話をしたりということを通して、ちょっと⾃分の認識とは違うなと感じましたね。修⾏から帰ってきて、⿓⾨司は⽇本の伝統窯ではあるんですけど、⺠藝品っていうよりは、⼟産品なんだなと。」

── その後、どのようにして⿓⾨司と⺠藝について向き合っていったのでしょうか。

「伊勢での修⾏が終わったあたりから、鎌倉のもやい⼯藝の久野恵⼀(くの けいいち)⽒が、もうずっと全国を回っていて。⿅児島にも年に3、4 回は来て、うちに泊まって、この 近辺を回っていました。彼と⼀緒に全国で展⽰会をしたり、どこかの展⽰会に呼ばれて⾏ったり。そういう時は、もう周りは⺠藝の世界でしかない。それで、ずいぶん知識が増えて、⺠藝に対する認識や意識も⾼くなりましたね」

※久野恵⼀ 

もやい⼯藝店主・⼿仕事フォーラム主宰者。1年の3分の2は⽇本中の⼿仕事調査や作り⼿を訪ね、⽇本⺠藝協会の理事も務めていた。2015 年に亡くなるまで、40 年以上に渡り⿓⾨司焼と交流し、様々な器をプロデュースした。

指差す先には、⽩蛇蝎釉(しろだかつゆう)という⿓⾨司ならではの釉薬を使った湯呑みと灰⽫が。

── 久野さんとの出逢いが⼀つのきっかけだったのですね。今は⺠藝に対してどうお考えでしょうか。

「⺠藝というのは、その⼟地の中から出来上がったもので、奇抜なことをしてはいけない、⾃分を表現しすぎてしまうのもいけないなと思っています。⽣活に応じた仕様でないと。ただ⽣活様式が変ってきて、昔使っていたけど使わなくなってくるのも当然の話で。⽇々⾃分も成⻑するように、作品も⽇々も流れていく。それに応じたようなものを作るべきだと思います」

── ⺠藝ブームだった頃と今で、⽣活様式以外に変わったなと思うことはありますか。

「当時からすると注⽂量が減っていますね。昔は注⽂の量があるから、それをまず作って。注⽂以外のものも、もう売れる場所や販路が決まっているから、それを作っていく。今はなんでも作れるんですけど、昔みたいに販路が狭いとなかなか売れない。どうして売るか、どういうものを作っていくかっていう。そういうのはよく考えていかないといけませんね。その代わり、今の⽅が⾯⽩いといえば⾯⽩いですし」

⼯房の隣にあるお店には、⿓⾨司焼がズラリ。⿊釉⻘流や三彩釉(さんさいゆう)などの伝統的なものや、鮫肌焼や⽩蛇蝎釉などここにしかない多彩なラインナップ。

── この先のことを考えるにあたって、こういうものを作っていきたい、もしくは、今後の陶⼯たちに、こういうものを作ってほしいなというものはございますか。

「⺠藝には1つの理屈があると思っているので、それに沿ったもの作りを考えています。その⼟地にあるもので、その時々の⽣活に合ったものを作るという。そのけじめ、考え⽅が⾮常に⼤事かなと。あとはやっぱりそれなりの思いをしっかり持つこと。みんながみんな、その想いに賛同するわけではないけど、⼀⽣懸命やってるっていうことだけは⽰さないといけないなと感じています」

取材・写真/⼤崎 安芸路(Roaster) 取材・⽂/⼩野 光梨(Roaster)

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