恵まれた環境ゆえの葛藤。スリップウェアの名手、 ふもと窯・井上尚之を支えた出会いと言葉。

恵まれた環境ゆえの葛藤。スリップウェアの名手、 ふもと窯・井上尚之を支えた出会いと言葉。

「IEGNIM(イグニン)」が贈る民藝シリーズ「ミライのミンゲイ」。

第13回目はスリップウェアの作り手として知られるふもと窯の井上尚之さん。小石原・太田哲三窯での修行時代を経て、小代焼を代表する窯元の二代目に。伝統の中に自分らしさを取り入れた現在のスタイルを確立するまでには多くの人との出会い、そして支えがありました。


井上尚之
1975年生まれ。父は小代焼の第一人者・井上泰秋氏。熊本デザイン専門学校を卒業後、小石原焼 太田哲三氏に師事。4年間の修行ののち、2000年よりふもと窯へ戻り、父・泰秋氏のもとで従事。以降、スリップウェアを中心に作陶を続けている。

小代焼きとは
熊本県の小岱山麓で約400年前から続く九州を代表する陶器。鉄分の多い小代粘土を使った素朴で力強い作風で知られており、現在は荒尾市・南関町を中心に11の窯元が古くからの技術・技法を継承している。平成15年に国の伝統的工芸品に指定された。


同じ熊本県荒尾市府本の出身で「念ずれば花ひらく」で知られている仏教詩人の坂村真民。ふもと窯の敷地内にある詩碑のまわりは、彼が好んだホオノキの花で春になるといっぱいになる。

 

焼き物と無縁だった学生時代。

──尚之さんの経歴を拝見すると、デザインの専門学校に進まれています。その当時は家業を継ぐことはどのように考えていらっしゃったのですか?

やりたくないというか考えたことがなかったですね。専門学校に行きましたが、学校よりもアルバイトの方が楽しいような生活で。そうなると、父からフラフラ何をしているんだと言われるようになりまして。せっかく家が窯元なのだから、全国にはいろいろな焼き物があるから見に行ってくればいいと言われたんです。まずは東京の日本民藝館、次に益子、そして沖縄の北窯に行きました。

──そんなきっかけがあったのですね。

北窯もできて間もない頃だったと思います。1週間ほど窯場に寝泊まりさせてもらったのですが、「焼き物をやりたくてもできない子もいる。その中で君は焼き物をできる環境にあるんだから、やるべきだ」って松田米司さんが言ってくれたんです。その時にいただいた言葉を焼き物をはじめて10年ぐらい経ってから思い出したんです。


「手を動かしながら話せますのでなんでも聞いてください」と尚之さん。私たちの質問に答えながらも、次々とろくろから整形されたうつわが作り出されていく。

──その時はそこまで響いてなかったんですか?

当時は自分も半分旅行のような感じでしたので。今思えばもう少し知識を持って行っておけば、すごく勉強になっただろうなと思うのですが。一週間で帰ってきた理由も「今度、窯炊くから」と言われたからです。窯を炊くときにいつも、家で薪運びの手伝いをしていたので、これはやばいと思って。 焼き物屋の息子ならではの感覚ですよね。これは大変なことになると思ってなにか言い訳して逃げるように帰ってきました。

 

断られ続けた太田哲三窯での修行。

──それは窯元の息子さんならではの感覚ですね。

そうやって帰ってきたものの、松田さんの話を思い出してない割には、何となくふわふわしているんですよね。それで、たまたま父の仕事で小石原に行くことがあって。そこで初めて太田哲三先生の店を見た時に、不思議な感覚ですがこういうところで学べたら楽しいだろうなと感じたんです。父もフラフラするぐらいなら焼き物をやれと言っていたので、やってみようかなと。本当に軽い気持ちでした。だから、最初に哲三先生にここで勉強させてくださいとお願いしたら断られました。


尚之さんがこの道に入ったのは20歳。スタートの遅れを人一倍の練習量で技術を磨いてきた。父・泰秋さんと違い自分は不器用と話す尚之さん。「綺麗に作られたものよりも、不器用でも一生懸命作ればお客さんに手に取ってもらえる。そういう世界だから今まで続けてこれたのだと思います」。

──尚之さんご自身でお願いされたのですか?

はい。父に言うこともなく。自分でここだなと思ったので。簡単に行けるのだろうと思っていたら、簡単に断られて。え。みたいな感じで。納得できないのでもう一度行っても。うちはもう息子も始めたし、人を雇う余裕もないと断られて。そう言われても2回断られるとどうしても行きたくなってきて。3回目、断られた時ですかね。哲三さんと親交のあった父に、どうしても哲三先生のところに行きたいから、お願いしてくれないかと頼みまして。4回目です。その4回目も哲三先生は断るつもりだったと思うんです。でも、いいよと言われるまでその場にいようと思って。僕はずっと座っていたんです。その結果、そこまで言うならと受け入れてくださることになりまして4年間お世話になりました。

──どんな修行だったのですか?

哲三先生からは「焼き物は帰ってからやればいいから、向こうで教えられないことを教えてやる」と言われまして。先生のお知り合いの左官さん、大工さん、庭師さんなどの手伝いに行っておりました。その当時は何をやっているのかと思っていたのですが、哲三先生のところから卒業した後に、しばらくしてはっと気づくんですね。いろいろなものに美があるっていうことを先生は教えてくれていたんだなと。


明るく真っ直ぐなお人柄の尚之さん。デニムのつなぎという陶工らしからぬスタイルに職人としての新しさを感じる。個展の依頼や全国のセレクトショップでの取り扱いも多く、その人気ゆえに生産が追い付いていないそう。

──すごい修行時代だったのですね。哲三さんのもとで一番学ばれたことはなんでしょうか?

一番学んだことは、やはり「生活」ですよね。僕らは器を作っているので。例えば洋食しか食べてない人間が和食器を作っても違和感しかないと思う。和食しか食べてない人間が洋食器を作っても同じですよね。やはり自分が作るものは、自分の生活の中の一部ですから。別に良い生活をしろとかそういうわけではなくて、生活を大切にしていないと、美しいものは生まれないということだと思います。

 

挫けそうな若手時代を支えた兄弟子の存在。

──そして4年間の修行を経て、ふもと窯に戻ってくるわけですね。

こちらに帰ってきましたが、当時は父の弟子もすでに4人いました。私は先ほど言ったように哲三先生のところに4年おりましたが、焼き物をやっている時間は少なかったので、うちで2年やってる弟子の方が圧倒的に上手なんですよ。そういった状態で戻ってきたので、当時の兄弟子で眞弓亮司(現在は独立して「まゆみ窯」を開窯)が従兄弟なんですけどいろいろと愚痴をきいてくれていたんです。

修行時代もこっちに帰ってきたときに、俺は焼き物の仕事をやってない。もっとろくろに座りたいんだと眞弓に話していたのですが、「帰ってきたら、嫌というほどやらなければいけないから、今は別にやる必要ない。先生の後をついて言われることをやっておけばそれで勉強になるから」と後押しをしてくれていたんですね。そういう言葉をかけてくれる人がいなかったら、哲三さんのところでもどうなっていたかわからなかったです。


現在は初代・泰秋さん、二代目尚之さん、お弟子さん含め四名体制。燃料、土、釉薬と自然のものを使用。鉄分が強く頑丈な作りが特徴だ。釉薬を使って模様を描き、登り窯を使って製作している。工房には日常使いに適した魅力的なうつわが並ぶ。

──それは心強かったですね。

だから帰ってきて焦る気持ちもあったんですけども、人一倍練習するしかないと思えた。でも自分が下手なものですから、ほかの弟子に見られるのが嫌だったんですよね。だから、夜9時を過ぎて電気が消えた後に、ここ(工房)に戻ってきて練習して。練習の痕も見せたくないものですから、全部また粘土に戻していました。

 

小代焼ではなく井上尚之として。

──尚之さんといえば、スリップウェアのイメージが強いと思います。スリップウェアはどういった経緯で作るようになったのでしょうか?

ろくろの仕事もできるようになってはいたのですが、何を作っていいのかわからなくて、途方にくれていたんですね。そんな時に、眞弓が熊本の人吉に「魚座民藝」という店があるからそこの店主の上村正美さんに会いに行ってみろというわけです。そこまで言うならと行ってみたら「お前、泰秋の息子か」みたいな感じで。どうやら父も上村さんに見てもらっていたらしく、それからですね。自分も上村さんに作ったものを見てもらうようになりました。

哲三先生のところで教わった竹の道具を使った「ポン描き」という技法が、自分も好きだったので、その技法を取り入れた作品作ってみたところ、それがスリップウェアに似た感じだったんです。そのときはスリップウェアという言葉も知らず、ただ哲三先生の真似をしただけなのですが。それがいいねと言ってもらえるようになり、取り組むようになりました。

──スリップウェアを作るようになったきっかけもやはり人との出会いだったんですね。

ただ当時は自分も弟子の中の1人でしたので、スリップウェアを一生懸命やろうと思っても「息子だから自由にしていいのか」とか、父と違うものが生まれてくるものにいいよねって言ってくれる人っていないんですよね。でもそんな時に上村さんが「多分10人中9人がお前のことを否定するだろう。でも、1人だけ味方は絶対いる。今は俺が味方になってやるから誰の真似だとか、あいつはダメだって言われても、まず10年続けてみろ」と言ってもらえたんです。

それに、ちょうど同年代の新しいお店もできてきて。特に福岡「工藝風向」の高木崇雄さんも応援しますと言ってくださって。その味方も大きかったですね。同年代が応援してくれるっていうのが。


当時は批判されたというスリップウェアも今や尚之さんの代名詞に。模様に目が行きがちだが一番こだわっているのはフォルム等の成形だそう。

──スリップウェアは尚之さんの中でお父様とは違うものを作りたいという気持ちがあったから生まれたものだったのでしょうか?

やはり個人で始めた人たちとの出会いで、 この人たちは0から始めたんだよなと。父も0から始めて、ここまでの地位を築いている。それに比べて、僕は2代目なので、10というかそれ以上のところから始められている。そこなんですよね。では目指すものは何かとなった時に、ただ良いものを作りたいだけなので、別に甘えだとか、人から何言われようが関係ない、良いものを作ればいい。それだけなんです。だから小代焼きという感覚も僕の中からはもう消そうと。僕が展示会をする時は小代焼とほぼ載せてないですし、井上尚之という個人名でやっています。

──小代焼ではないと否定しているわけではないですか?

否定はしていません。本当に純粋な気持ちですね。僕は0からではないけれども、0の人には負けたくない。 0からやっている人と同じ、もしくは1歩先の努力をしたら僕は無敵じゃないけど、いいものができるよねっていう感覚になったので。恵まれている分、僕は必ず良いものを作らなきゃいけないんだっていう、良い意味でプレッシャーを持って仕事をしています。

 

食器棚の一番前に置かれるうつわを。

──父・泰秋さんは日本民藝協会の会長を務めるなど、ふもと窯は民藝の窯元として知られていますが、尚之さんにとって「民藝」とはどういったものですか?

見本にしている器は民藝のものが多いです。やはり美しく自分には映るものですから。父が民藝として仕事をしてきたので、僕はその2世ということになるのですが、民藝についてはまったく考えてないです。民藝と語るとなんだか工芸から離れた独立したものに聞こえますが、やはりまず工芸であるということ。工芸という大きなくくりの中の民藝であると考えていますので、僕がやっているのは工芸という認識です。工芸の考え方はいろいろあると思いますが、 僕は生活においての美しいもの。目を引くものというのが工芸だと思っています。


小代焼の窯元の中でも、最大級6袋の登り窯を所有。年に6回窯炊が行われる。「私自身は登り窯にこだわりがあるわけではないんです。何で焼くかよりもできたものが良いものかどうかが全て。それでも登り窯には毎回どう仕上がるかわからない面白さはありますね」と尚之さん。

──器を作る上で大切にされていることを教えてください。

この仕事を始めた時から言っているのは、「食器棚の一番前で。いつも使ってもらえるうつわ」を作りたい。その気持ちだけは変わらないですね。何十年やっていても変わらないです。

現在40代ですが、50代のための40代だと思ってやってきました。50歳になれば体力的にも作れる量は減ると思っているので、何を本当に残していくのか。それを50代の、10年をかけて考えていきたいです。

例えば、スリップウェアもこれだけやってきたのでどの形を残すのか、どの模様を残すのか、それを考えることに10年を費やす。そして60歳になったら、 もしかしたら僕の言葉がこの世界で通るようになるかもしれない。そうなったら、70歳くらいまでは作品作りをしてみたいと思っています。

 

今の苦労も10年後には物語になる。

── 今のお弟子さんと、この春には息子の亮我さんも戻られると思いますが、その2人に対して教えたいこと、伝えたいことはありますか?

こうなってほしいとかはないですね。それはもう個人の自由なので。できるだけ楽しくやってもらえれば。 何をもって楽しいと思うのかは本当に難しいんですけども。

唯一あるとすれば、苦労もしてもらいたい。ストーリーを作ってもらいたいです。

だから、弟子には悪いんですけど「独立して売れた時に、自分はこれだけ苦労してやってきたんだって。そういう物語があった方が絶対に将来楽しいと思うので。俺は厳しくするんだよ」と言ってます。

ただ楽しかっただけではストーリーがないですから。だから今の苦労も、10年後に 他の人に話すためのネタだと思ってやると、苦労でもなくなるし、余計に厳しい道を行きたくなる。自分もそういう道を進んできましたので。


登窯の中で作業する弟子の山崎航さん。鳥取の窯元に修行に出ている息子・亮我さんももうすぐ戻ってくる予定だ。父・泰秋さんが自由にやらせてくれたように、二人にも自由にやってほしいと語る尚之さん。

──確かに尚之さんにはたくさんのストーリーがありますね。

振り返ってみると、節目節目で人との出会いであったり、いただいた言葉に支えられて今までやってこれました。もっと話してくれと言われたら、まだまだネタはいっぱいありますよ(笑)。

 

写真/大崎 安芸路(Roaster)  取材・文/阿久澤 慎吾(Roaster)

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