作りたいのは、全てを超える普遍的なもの。 野はら屋・佐々⽊かおりさんの原動⼒。

作りたいのは、全てを超える普遍的なもの。 野はら屋・佐々⽊かおりさんの原動⼒。

「IEGNIM(イグニン)」が贈る⺠藝シリーズ「ミライのミンゲイ」。 第13回⽬は⿅児島県薩摩川内市で⼯房を開き作陶されている、焼き物⼯房野はら屋の佐々⽊かおりさん。学⽣時代に職⼈に憧れ焼き物の道を志し、沖縄の北窯に弟⼦⼊り。独⽴されてからは基本的に1⼈で活動されています。現在では登り窯づくりにも挑戦されているパワフルな佐々⽊さんに、これまでの経緯や、これから作っていきたい器のお話を伺いました。

これまでの「ミライノミンゲイ」記事はこちら


佐々木かおりプロフィール

1971年⽣まれ、⿅児島県出⾝。沖縄県にある北窯※の⼀期⽣として10年間修⾏し、2006年に独⽴。2022年⽇本⺠藝館展ー新作⼯藝公募展ーにて「⿊釉⼊れ⼦鉢・⿊釉茶碗」で奨励賞を受賞。

 ※北窯(きたがま)

沖縄県の中部、中頭郡読⾕村にある、宮城正享(みやぎ まさたか)、松⽥共司(まつだ きょうし)、松⽥⽶司(まつだ よねし)、與那原正守(よなはら まさもり)の 4名が所有する13連房の共同窯。沖縄の⾔葉で焼き物を指す「やちむん」の歴史を汲みつつ、現 在のライフスタイルに合う器を⽣み出している⼈気の窯。

⼯房の隣で建造中の登り窯の様⼦。

 ⼈⽣を決めた、北窯との出会い

⿅児島県薩摩川内市にある、「焼き物⼯房野はら屋」。そこで⿅児島の⿊もん※ をベースに、⼒強さの中に温かみのある器を作っているのは、佐々⽊かおりさん。ご実家の近くに⼯房を作り、⾼校1年⽣の息⼦さんと、⼩学6年⽣の娘さんの⼦育てをしながら、作陶されています。

⼤学時代に焼き物の道を志したという佐々⽊さん。実は⼤学では⼯芸などの勉強をしたわけではなく、法⽂学部だったとのこと。

「⾃分がまさか焼き物をするとは思っていませんでした。特に⽬的もなく沖縄の⼤学に⼊って、⾊んな⼈たちと関わって、⾃分の⽣き⽅とか就職先を模索している時に、なんでもいいから物を作る⼈になりたいという思いが芽⽣えてきて。それで⼯房巡りとバイト先を探し始めました。ほとんどのところには断られてしまったんですけど、たまたま北窯を訪ねたタイミングが、ちょうど初窯を焚いたあとで、『明⽇、初窯の窯出しするから、来てみてれば?』と。そこからですね」
※⿊もん
薩摩焼の⼀つであり、「⿊薩摩」とも呼ばれる。絵付がされた陶磁器で、幕府などに献上 された「⽩薩摩」とは対照的に⿊釉⼀⾊であり、庶⺠のための⽇⽤品が中⼼に作られた。

⼀度は断られた弟⼦⼊り。諦めきれずに挑んだ焼き物への道

⼤学3年⽣の 6⽉ごろから、松⽥⽶司(まつだよねし)※ さんの下でアルバイトをするように。⼤学の授業を調整して週に3〜4回ほど、通うようになったそう。
「そのまま北窯に就職したいとお願いしたんですけど、社会に出ることを勧められて。⼥の⼦だし、若いし、焼き物で⾷べていけるかどうかもわからないし。そういうことを多分考えてくださったんでしょうね。それで就職試験も受けたけど、それまで就職活動も勉強もしてなかったもんだから、全部落ちてしまったんです。沖縄で 1年間、掃除の仕事やアルバイトなどをしましたが、それでも諦めきれなくて。親⽅に『やっぱりお願いします』って頼んで、それから修⾏が始まりました」

念願の北窯での修⾏が始まり、忙しい⽇々を過ごすことに。

「当時は2か⽉に⼀度、窯を焚いていたので、毎⽇があっという間でした。窯を焚いて出荷したらすぐ⼟作り、薪割りみたいな。18時以降は⾃由に作業してよかったので、早く技術を⾝につけたくて遅くまで残っていました。周りの仲間たちと⼀緒に、⾃主的にやっていましたね」
※松⽥⽶司(まつだよねし)⽒
1954年⽣まれ、沖縄県読⾕村出⾝。那覇市⾸⾥の⽯嶺窯にて⼤嶺實清⽒に師事したのち、1990年に宮城正享、松⽥共司、與那原正守らと北窯を開く。1995年に⽇本⺠藝館展⼊選。

「ここでしか作れないもの」を求めて、⿅児島にて独⽴

10間年の修⾏を経て、佐々⽊さんは地元・⿅児島で独⽴されますが、それには親⽅である⽶司さんの影響がありました。

「⽥舎が好きじゃなくて⾶び出したくて、沖縄に⾏ったんです。だから最初は、沖縄で焼き物を続けていこうかなと思っていました。親⽅は沖縄で⽣まれて、修業して、仕事をされていて。沖縄の昔の話や、⾃⾝の幼少期とかの話をよく聞かせてくれました。親⽅の話を聞いていくうちに、⾃分が⽣まれ育ったところでやった⽅が、すんなり⾃分の作りたいものが出てくるかなという気持ちが強くなって、⿅児島に帰ってきたんです」。


しかし実際に作り始めてみると、なかなか思うようにはいかなかったとのこと。


「苗代川(なえしろがわ)の⿊もんとか、⿅児島に帰ったらああいうものを作りたいなと思っていたのでそれを作っていましたが、はじめのうちは修⾏した⼿が、沖縄っぽいものを作っちゃうんですよ。頭の中では、⿅児島のもの、ここでしか作れないものを作りたいっていう思いはありつつ、なんか沖縄が抜けきれない。やっぱり沖縄っぽいものも作ってみたいなという感じで試⾏錯誤していました」

⼯房の⼊り⼝にあるろくろ。ここで⽇夜、⾃分が作りたいものと向き合った。

「ある時に、別々の⼈から、『あなたはどういう⽴ち位置なのか』『何を⽬指しているのか』『どうありたいか』など、同じようなこと聞かれたことがあって。⾃問⾃答した時に、⿅児島がベースではあるけれど、やっぱり朝鮮や沖縄のものも好きだと気づいて。⾃分の⽬指すものがはっきり定まったような気がしました。沖縄の修⾏で得たものを持ちつつ、本を読んだり、⾊々な⼈と会って話を聞いたり、ものを⾒たり。地元のものを⾃分の中に落とし込んで、取り⼊れていく作業に時間をかけて取り組むようになりました」

佐々⽊さんが作った植⽊鉢など。地元の⽥んぼのあぜ道に溜まる、鉄分の強い泥を窯の下で乾燥させ、1回素焼きしたものが⿊い釉薬の原料になるそう。

気持ちが溢れている器に⼼が惹かれる

⼯房には制作の参考にと、さまざまな器が。そこからのインスピレーションが、⽇々の器づくりに⽣かされています。

⼯房にある参考品の数々。左奥にあるお⽫は⼩⿅⽥焼の柳瀬朝夫さん作。

「昔から良いものとして使われて、残ってきているものに⼼惹かれるんですけど、そういう形とか道具とか、今の時代では需要がないものを、需要あるものとして残していきたいんです。例えば⼭茶家(やまぢょか)。⿅児島の焼き物で、⽥畑とかの外仕事に持っていって、そこで煮炊きして、お昼ご飯とかを作って⾷べるための道具です。今はもう需要がないかもしれないけど、形が可愛らしいし、魅⼒的なんですよね。これを⼟鍋みたいに耐熱の⼟で作って、ご飯を炊いたり、お味噌汁を作ったり。⽕にかけられる道具として残していきたい」。

参考品として所有されている⼭茶家。ふっくらとしたフォルムと底についた⼩さな⾜のバ ランスが愛らしい。

「気持ちって物にでてきますよね。ただ作っているだけじゃなくて、物に気持ちがのるというか。私の性格はおおらかと⾔えば聞こえは良いけど、いい加減というか⼤ざっぱなところがあって。でも⾃分としてはそこを良しとしています。 そればっかりになると仕事が雑になっちゃうので、気をつけながら。現代の⼈たちは、なんでもかっちり綺麗に仕上げようとする傾向があるけど、それにはちょっと、魅⼒を感じなくて。昔の⼈って窯に詰めてなんぼみたいなところがあるんですよ。詰めるために⾙を置いて、器を重ねる。そうして焼くと器に跡が残るけど、気にしない。そういう仕事ぶりが好きなんです。気持ちが溢れてしまっているというか。何でかわからないけど惹かれるんですよね。 そういう多少歪んでいても、ちょっと傷があっても、なんか魅⼒的っていうような器を作れたらいいなと思います」。

⾙の跡がついたとっくり。模様のようで可愛らしい仕上がりに。

時代も⼈種も地域も超えて、良いなと思えるものを作りたい

トライ&エラーを続け作りたいものを模索するなかで、2022 年には⽇本⺠藝館展の奨励賞を受賞した佐々⽊さん。⺠藝について、そしてそのミライについて、どうお考えなのでし ょうか。

「『⺠藝とは何か』、ということは北窯にいたころに本を貪り読んで、熱くなって考えていました。いいなあ、こんな世界で⽣きていきたい、⽬指していきたいと思ったから、今の仕事をしています。でも⺠藝の今後と⾔われると難しいですね。あまり深く考えてこなかったかもしれない。ただ、⺠藝が⼀時的なブームや表⾯的なライフスタイルであってほしくないですね。⺠藝は、安く⼤量に良いものを⽣産して、無名の陶⼯が作るものという、 柳(宗悦)さんの考え⽅に共鳴したんですけど、今はもう時代が違うから、そことどう折り合いをつけていくか、ということに葛藤はありました」。

終始穏やかで優しい笑顔を交えながらお話してくださった佐々⽊さん。奥には娘さんがチラリ。⼯房に遊びにきて、⼟を触ることもあるのだとか。

「でも昔の陶⼯さんは無名とは⾔え、腕のある⽅に認めてもらいたかったり、町内ではちょっと名が知れていたり、ということはあったと思うんですよね。想像ですけど。そういった⼈間らしい顕⽰欲などもありながら、ものづくりをしていたのかなって。そういうところに当てはめていくと、納得できる部分もあります。ただ、売れるから作る、売れるものを作るじゃなくて、良いものを作る。作る⽬的が逆転しないように戒めながらやってい ます。良いものって普遍的じゃないですか。柳さんは、普遍的なものをある分野から⾒出して、⺠藝という⾔葉を作られたと思うんです。時代も⼈種も地域も超えて、良いなと思えるものを作りたいし、それが⺠藝なのかなって思ったりもしています」。

独⽴して 17 年。「野はら屋」らしさが⾒えてきた

「⿊もんが⾃分の太い柱のうちの1本。⼀⽅で⾃分が好きな沖縄や朝鮮のもの、昔の⽇本各地で作られた古いものも取り⼊れる。そのあたりが混ぜこぜになったものが、「野はら屋」らしいものなのかなと。私にとっての良いものは普遍的なもの、すべてのものを⾶び越える⼒のあるようなものなので、それを⽬指して作っていきたいですね」。

やっと⾒えてきた「野はら屋」らしさを基に作られた器たち。

⾃分で修⾏先を⾒つけ、独⽴し、憧れだったものづくりの道を邁進する佐々⽊さん。「やりたい!」と思ったことに真っ直ぐ突き進み実現していく姿は、柔らかな情熱に包まれていました。

写真/⼤崎安芸路(Roaster) 取材/⼤崎安芸路(Roaster)、⼩野光梨(Roaster) ⽂/⼩野光梨 (Roaster)

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