祖父がたどり着いた理想の地で 受け継がれる「椿窯」荒尾浩之のものづくりの精神。

祖父がたどり着いた理想の地で 受け継がれる「椿窯」荒尾浩之のものづくりの精神。

注目の窯元に出向き、民藝の「これまで」と「これから」について伺うインタビューシリーズ「ミライのミンゲイ」。

第9回目は日本最大級の登り窯が残り、やきものの里として知られる島根県温泉津(ゆのつ)にて、作陶家・河井次郎の流れをくむ3軒の窯元のひとつ「椿窯」の5代目代表を務める荒尾浩之さん。聞き手は『CAMELBACK sandwich&espresso』など数々のコーヒーショップに携わる鈴木啓太郎。器への造詣も深く、かねてより「椿窯」を愛用するなど親交の深い鈴木啓太郎が紐解く「椿窯」の過去と現在、そしてこの先へ。

 

これまでの「ミライノミンゲイ」記事はこちら

 

話し手:荒尾浩之さんプロフィール

1976年島根県生まれ。祖父・荒尾常蔵が昭和44年に温泉津に開窯した「椿窯」。父である荒尾浩一に師事したのち、現在5代目の代表を務める。第48回島根県総合美術展工芸部門金賞受賞など。

 

聞き手:鈴木啓太郎 プロフィール

商社やアパレル勤務を経てコーヒーの世界へ。2014年に『CAMELBACK sandwich&espresso』をオープンすると、東京を代表する人気店に。現在は、『Good good not bad』や『夏目坂珈琲』など、数多くのカフェの経営&プロデュースを手掛ける。IEGNIMの創設メンバーであり、代表の大崎とともに全国の窯元に足を運び、新しい民藝の可能性を追求している。

 

温泉津焼とは

江戸時代宝永年間(1704年)に始まる。主に「半斗(はんど)」と呼ばれる水がめを中心に生産。日本各地に出荷し大いに栄えた。昭和40年代、化学製品(プラスティック)の発達により一時は衰えたが、その後、窯を再興させての製作活動が行われている。耐火性の高い石見粘土を使用し、高温(1300)で焼成することで硬く割れにくい点が特徴。

右が椿窯5代目の荒尾浩之さん、左が鈴木啓太郎。

 

河井次郎とともに温泉津の地へ

鈴木啓太郎(以下、鈴木):荒尾さん、本日はよろしくお願いいたします。

荒尾浩之さん(以下、荒尾):よろしくお願いいたします。 

鈴木:あらためて椿窯の歴史から伺いたいのですが。御祖父の常蔵さんが温泉津で始められた経緯を教えていただけますでしょうか。

荒尾:もともとうちは、兵庫県明石市の蛸壺屋だったそうです。2代目が京都の祇園町に器を納めていました。3代目の常蔵もそれを継いでいたのですが、戦争(第二次世界大戦)になり、民藝の始祖の河井次郎先生とは戦友でして、「帰国したらうちで一緒にやらないか」と誘っていただいたのがきっかけのようです。

その後、常蔵は京都の河井先生のところで轆轤師(ろくろし)をしておりました。河井先生の指示通りのものを作る。右腕のようなものですね。しかしある頃から京都は公害条例が出て煙が出せなくなった。登り窯が炊けなくなってしまったんです。

 

そこで、もともと島根に縁のあった河井先生と温泉津を訪れてみたところ、「はんど」といわれる独特の大きな水がめと、良質な粘土。そして集落には10基以上の登り窯があった。そんな環境に魅了されてこの地に移り住んだと聞いております。

 

港に隣接したこの地域は急傾斜が多く、登り窯を設けるのに適していた。登り窯は現在「温泉津やきものの里」にある。

 

鈴木:当時、温泉津には登り窯がすでにあったのでしょうか?

荒尾:水がめや瓦などを焼いていたのでありました。温泉津は石見銀山の貿易港でしたので「はんど」の出荷がものすごくあったようです。こちらに移り住んだのが昭和44年。ちょうどプラスティックができ始めてバケツが登場した。それにより水がめの需要がなくなってきたところで、移り住んできた河井先生のところには「なんとかならないか」と相談も来ていたようです。

鈴木:石見銀山で採れたものを運ぶ、北前船のようなルートもあり栄えていた。それが時代とともにプラスティックに変わり、やきものが衰退してきた。そのような中で河井先生と御祖父が新たに始めようとしたわけですね。

荒尾:はじめは家庭向けのものをやりながらも京都祇園の料亭への食器などが主でした。平皿から湯呑みまで依頼されたことはなんでもやっていたようです。

 

歴史をつなぐ最大級の登り窯

鈴木:見せていただいた大きな登り窯について。これは他の窯元の方と共同で使われているのでしょうか?

荒尾:はい、市が所有しています。このクラスのものがこの集落にはかつては10基あったのですが現存するのは2基です。

鈴木:年間で何回動かして、1回の焼成でどれくらいの器が焼けるのでしょうか?

荒尾:春と秋の2回です。湯呑みでしたら、数えたことはないのですがおよそ500個以上。35時間焼きっぱなしです。ずっと番をしていて、薪をくべるのですが、それがだいたい600束くらい。窯の中の焼成温度は1300℃以上に達します。3つの窯元があるのでローテーションですが、最終的に夜7時には全員集合で焼いています。体力的なものもあるので、よくて年2〜3回くらいしかできない作業です。

 

現在は3軒の窯元があり年2回の「やきもの祭」の1週間前、登り窯に炎が入る様子を見ることができる。

 

鈴木:とても貴重な作業ですね。それでも、焼き損じや割れてしまったりすることもあるのでしょうか?

荒尾:やはり共同窯ですので、各窯元によって焼き方が微妙に違うんです。用途に応じて焼く温度が違うものなので、釉薬が溶けてなかったり。炎が一方方向ですのでそっちに器が引っ張られることもあります。丸いものが楕円になってしまったり。登り窯は、本当に焼いてみて窯出しをしてみないとわからない難しさがあります。

 

唯一無二の漆黒の黒

鈴木:今回IEGNIMのために作っていただいた器について伺います。この黒が特徴的ですよね!

荒尾:私どもの釉薬を使用したときに、同じ釉薬でも塗り方によって青く出る部分と黒く出る部分がある。その黒く出る部分で器が作れないかという想いがずっとあったんです。

鈴木:そうすると、これは呉須釉なんですか?

荒尾:わかりやすく言うと、呉須になります。鉄分が多いので漆黒というか艶消しの黒になるんです。

今回IEGMINで依頼した植木鉢。マットな質感の黒地は現代のインテリアに馴染みやすく、植物の鮮やかな色彩を引き立てる。(写真:藤井由依

 

鈴木:一見すると素焼きのようですが、これまでの蓄積から生まれたものというわけですね。民藝でこういう黒を作ってらっしゃるところは珍しいですよね。 

荒尾:他にはないという言い方は語弊があるかもしれませんが、艶消しの黒は、他と違うかなと思います。それに、黒は黒でもキラッと光っている部分がありますよね。それは薪を入れることによって器に灰がかかりそれが作用してキラキラになります。今回、私の中でのこだわりは日本最大級と言われる登り窯でこれを焼けたということ。そして今回は少し赤が出ていますけれども、赤が出るかどうかもわからなかったので。 

鈴木:青の上にのっているこの赤が出るか出ないかわからなかったということでしょうか?

荒尾:そうです。還元焼成というやり方があるのですが、それをきっちりしないと赤が抜けてしまうことが多いのです。

鈴木:この地の黒の上に直接、赤をのせると赤は出ない。そのため青の上に赤がのっているのですね。 

荒尾:はい。赤の色材を濃いめにかけて、青を抑えめにして作っています。登り窯で実験をするのは難しいなかで、今後どうアベレージを上げていけるか。その辺りは確立していかなければいけないと思っています。

 

使う方の日常に寄り添える器づくりを

鈴木:一発勝負ですからね。今回はこちらからの依頼で色々な器を作っていただいたのですが、荒尾さんご自身の器づくりへの思いもお聞かせください。まず家業を継ぐことについてはどのようにお考えだったんでしょうか?

荒尾:他の仕事を考えたことがなかったです。親にそう仕向けられたというのもありますが。京都の陶芸の学校に入ったのも「お前、京都に遊びに行ってこいよ」と。とりあえず技術は現場で叩き上げてあげるから、全国に友だちを作ってきなさいと。ですから4年間ほったらかしだったんです(笑)

鈴木:全国の窯元さんのご子息たちがそこに集まるのですね。そこでいろいろ関係性もできるし、情報交換もできる。

荒尾:そうですね。困ったときには相談に乗ってもらっています。河井次郎先生の甥にあたる方やお孫さんとも交流がございます。すごい方々と繋がりを持たせていただいています。

 

キメが細かくて、耐火度も強く、歪みが非常に少ない温泉津の土から生まれる美しい器たち。

 

鈴木:器を作る上で意識されていることを教えていただけますでしょうか?

荒尾:商売やっていく上では、いかに多くの方に使っていただけるか。知っていただけるかというところは必要なのですが。親父から口酸っぱく言われたのは「焦るな、慌てるな、手を抜くな」。それだけは肝に銘じてコツコツやれと常々言われておりましたので。使っていただける方の日常に寄り添えるような器づくりを続けていきたいと思っています。

 

“赤へのこだわりと初めて挑戦した植木鉢

鈴木:日常で使う物を作りたいというお話を伺いましたが、今後挑戦してみたいことはありますでしょうか?

荒尾:やはり。誰しもができるではないというところのこだわりを持ちたいです。あとは、今回の植木鉢にしても初めてのことでしたが、おかげさまでそれをやることによって地元の方から「お!変わったことをやっているな」という評価をいただきますし。やはり少しずつで良いので、そういった新しい取り組みもしていけたらと思っています。

鈴木:星野リゾートに飾られるような作品も作られていらっしゃいますが、やはり日常で使える器と、作家としての荒尾さんの作品。両方とも大事ということですよね。

荒尾:よく意見してくれる親友がいるのですが「やはり、引き出しはたくさん持っておけよ」と。すべて並行して動きなさいと。それが一番難しいことなんですけど。でもそういうこだわりはありますね。「全部やってやろう!」みたいな(笑)。

現在で5代目の椿窯。「息子と一緒に仕事ができたら嬉しいなという思いはあります」と浩之さんは語る。

 

鈴木:最後に、椿窯の今後についてはどうお考えでしょうか?

荒尾:なんとか6代目に繋ぎたいという思いはあります。親父からも言われたのですが、本気で継がせるつもりなら今のうちから仕向けなければいけないと。今は薪を運んだり、窯炊きは手伝ってくれています。息子はおじいちゃん子でしたので、おじいちゃんの想いは息子もわかってくれていると思います。今はプロ野球選手になりたいみたいですが(笑)。

 

写真/大崎 安芸路(Roaster)  取材/鈴木 啓太郎  文/阿久澤 慎吾(Roaster)

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