「IEGNIM」が贈る民藝シリーズ「ミライノミンゲイ」。第1回目の舞台は大分県は、日田市。市街地から離れた小鹿田焼(おんたやき)の里で副理事長を務める坂本浩二さん。
小鹿田焼は、一子相伝で受け継がれてきた300年の歴史があり、昭和初期の思想家、柳宗悦 (やなぎむねよし) より「世界一の民陶」と絶賛された伝統工芸だ。
坂本浩二さんは、今では9つしかない小鹿田焼の窯元の1つで、息子の拓磨さんと共に作陶している。
陶芸作家とは違い、基本的に名前を出すことを良しとしていない小鹿田焼の世界で、積極的に自分の名前で活動しようとしている浩二さんのお話を伺ってきました。
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話し手:坂本浩二さんプロフィール
小鹿田焼を代表する陶工のひとり。民藝の世界では若手の作り手として早くから注目を集め、大物作りから、茶碗や小皿まで丁寧な仕事が器の使いやすさに表れている。現在は、息子の坂本拓磨さんとともに作陶している。
聞き手:大崎安芸路プロフィール
90年代の伝説のカルチャー誌『relax』やファッション誌『asAyan』など、数々のカルチャー誌の編集を経て、制作会社ロースターを立ち上げる。趣味で集めていた民藝品で小鹿田焼のことを知り、今回インタビューが実現した。
小鹿田焼とは
1705年頃、大分県日田市の自然豊かな山間で生まれた伝統工芸品。小鹿田に住んでいた黒木家が土を見つけ、福岡県、小石原焼(こいしわらやき)の陶工だった柳瀬氏が技術を持ち込んだことから始まる。昭和初期の思想家、柳宗悦 (やなぎ・むねよし) に「世界一の民陶」と絶賛された(著書『日田の皿山』より)。
現在、小鹿田焼の窯元は9軒あり、開窯以来、黒木家・柳瀬家・坂本家の三家体制で行われている。他の多くの窯元と違い、原料となる土は、集落周辺で採取されたものしか使われない。赤みがあり鉄分が多く含まれているのが特徴。
一子相伝の憂い。伝統を守る光と、伴う責任の影
大崎 安芸路(以下、大崎):坂本さん、本日はよろしくお願いいたします。
小鹿田焼の里には他にも坂本さんがたくさんいらっしゃいますので、本日は浩二さんと呼ばせていただきますね。
坂本 浩二さん(以下、浩二):はい。よろしくお願いいたします。
右のマグカップが浩二さん作。左のカップ&ソーサーは息子の拓磨さん作。
大崎:小鹿田焼の歴史は300年と伺いましたが、良い土があったからここで小鹿田焼が始められたのでしょうか?
浩二:そうだと思います。でも、確かな文献とかは残ってないんですよ。
黒木家がここ小鹿田で土を見つけて、福岡の小石原焼さんがお兄さん窯なので、そこの柳瀬さんが技術を持ってきてくれたんです。坂本は土着なので土地を提供して、黒木さんがお金を出してくれて始まったと聞いています。
大崎:先ほどミュージアム(※1)の資料でも、そのお話を拝見しました。
浩二:はい。ただ、みなさん言うことが違うので、どこが正しいとかっていうのはわからないんですよね(笑)。
大崎 そうなんですね。小鹿田焼は、一子相伝で受け継がれてきたとお伺いしました。
浩二:はい。実は、変な話なんですけど、一子相伝というのも、あとから付けられたものなんです。
大崎:えっ! どういうことでしょうか?
浩二;要するに、食えないから、という話で。息子ひとりだけに継がせる形になったんです。
小鹿田焼の場合、ここ小鹿田にある土のみを使います。だから土には限りがある。息子が二人いたとしても、生産量を倍にすることは難しい。
このシステムを変えない限り、弟子を増やすことはできないんです。
大崎:なるほど。初めて知りました。伝統を守り続ける小鹿田焼ならではの悩みですね。
浩二:他の窯元であれば、他から土を買うことができます。1トンで足りなくなれば、土を買って2トンにすればいい。
僕のじいちゃんは、一番下の弟と一緒にやっていたんですよ。でも、その分稼ぎが増えるわけではない。なので、弟もご飯は食べられるけど、無給で働いていたそうです。
今の時代、そういうのは難しいと思うんだけど、当時はそれが当たり前だった。
「親子で師弟関係」の難しさ
大崎:坂本さんの先代の時代には、他の窯元さんのところに弟子入りして2年ぐらい修行に出ても、120日しか土を触らせてもらえませんでした、みたいなこともあったとお聞きしました。
浩二:そう。いわゆる丁稚奉公(でっちぼうこう)ですね。
だから、修行期間が終わる間際に、流石に何も覚えずに返したらまずいってことで、慌てて2ヶ月くらい陶芸を教えて返すなんてこともあったそうです(笑)。
大崎:今でもそういったことはあるんですか?
浩二 恐らく今はないと思います。だけど家で教えるとなると、父親が息子を弟子扱いするのはなかなか難しい。息子も師匠ではなく、親と思ってしまって。
大崎:それはどの伝統芸能の世界でもありそうですね。
浩二:ときどき、あからさまに(拓磨さんは)僕へ反抗してくるんです(笑)。
だから、修行に出したかったんですけど、今は弟子としてとってくれる窯元も少ないんですよ。
というのも、他の窯元の後継に影響を与えるのが怖いんです。
大崎:弟子として出す側ではなく、預かる側が怖がるんですか?
浩二:そうです。自分としては、ろくろは一切触らせなくても良い。要するに無給で働かせてもらえれば良いと思っているんですが。
大崎:社会勉強みたいな感じでしょうか?
浩二:人の下で働くっていうことが、どれだけ大変なのかっていうのを学ばせたかったんです。
山陰の窯元の方にも相談しましたし、最終的には沖縄の方にも相談させてもらいました。でもやっぱり、ちょっと荷が重すぎるということで断られてしまって。
投稿の先輩方にもお願いしたんですけど……。
大崎:なるほど。責任を感じてしまうんですね。
もし預かって、坂本浩二さんのところの窯が変わってしまったら困るだろうと。同じ陶芸家だからこそ、責任を感じてらっしゃるんでしょうね。
浩二:2年間くらいだったら影響ないんじゃないですかとも言ったんですけどね。なかなかみなさん難しいようで(苦笑)。
大崎:みなさん同じように窯元をやってらっしゃるからこそ、そう感じるんでしょうね。
浩二:基本的にどこも修行は5年なんです。それでもみなさん、2年でも預かるのはちょっと……みたいな感じでしたね。
それで結局、「お父さんの弟子でいいんじゃないの?」って家族から言われました。
大崎:自分ところだけで一から教えられている小鹿田焼の窯元はないんですか?
浩二:いえ、あります。
それこそ、うちの息子も結局、受け入れ先がなかったので、弟子として、とにかく他人を扱うと言う気持ちで教えてきたんです。
大崎:歌舞伎のような伝統芸能の世界と一緒ですね。親である前に、師匠である。難しいですよね。
浩二:そうなんです。もうすっかり親子の世界で暮らしてきてますから。
昨日まで普通の親子だったのに、じゃあ、今日から師弟って訳にはなかなかいかないです。
一人の師匠ではなく、地域が職人を育てる
大分県日田市の中心部からバスで30分ほど山に入ったところにある「皿山」。小鹿田焼の里は国重要無形文化財に指定され、観光名所にもなっている。
大崎:ちなみに、浩二さんご自身はどうだったんですか?
浩二:実は、僕が出ようとしたら、親が出さなかったんですよね。
大崎:じゃあ、お父様から直接教わったんでしょうか?
浩二:教わったというかですね……。これ難しいんですよ。
僕も今、親子でやっているんですけど、(小鹿田焼の)周りの人に育ててもらうっていう感じで、親は見ないんです。最終チェックぐらいで、あとは周りの先輩方が面倒見てくれるんですよ。
大崎:小鹿田焼の他の窯元の先輩たちに、息子さんを育ててもらう感じになっているんですね。
浩二:はい。ちょっとした家族みたいなものですかね。
ですから、子供たちは「隣の家で遊んできました」「今日は前の家で食事してました」って感じで。
お互い作っているものに対しては、なんでも下の子たちに話すんですよ。
隠したりとか、秘伝だからというのは一切なく。そうやって周りが育てていく感じですかね。
大崎:陶芸以外のことも勉強になりますね。
浩二:生意気なら咎められたり、お酒を飲まされることもある。
教えられてきたことの中には、そういうどうしようもない職人の社会というか、先輩が酒飲みに行くぞって言ったら、NOとは言えないようなこともあるんです。
今の世の中の社会とはちょっと違うんですけど、絶対に行かないといけないんですよね(苦笑)。
その代わり、後輩はお金を払うことは一切ない。芸人の世界っていうのは一緒で、上が全部払う。
なので下ができたら、いきなり今度は自分が全部払わないといけなくなる(笑)。
琢磨の場合、今までは一番下だったんですけど、これからはそれを後輩に見せないといけない立場になっていきます。
高校を卒業して18歳の新しい後輩たちが出てきた時に、じゃあ先輩としてどうするかっていう時期ですね。
大崎:昔ならではの芸能の世界ですね。
浩二:先輩から頂いたものは後輩に返す。それが今の社会では全てよいとは言えないかもしれません。
ただ先輩としてのその威厳とかルールとかっていうのは、やっぱりこういう狭いところだときちんと守っていかないと、だんだん大事なものも壊れていくんじゃないかなと思っています。
大崎:確かに。でも、先輩にいただいたものを、後輩たちに返していくっていうのは、とても素敵な連鎖だと思います。
浩二:拓磨にも、同じようやるといいよ、とは教えているのですが、それをどう取るかは、これからの若い世代が決めていけばいいと思います。
浩二さんの息子であり、跡継ぎでもある陶芸家の坂本拓磨さん。インタビュー中もずっとろくろを回し、黙々と小鹿田焼に向かう姿が印象的だった。
名無しの小鹿田焼
大崎:先ほどこちらにお伺いする前に、日田市の大きな家具屋さんがやっているショールームでちょうど小鹿田焼の展示を拝見いたしました。
どちらの窯元の作品なのかをお聞きしたところ、教えてはいただけたものの、小鹿田焼とは本来、あまり名前を立ててはいけないものだと伺いました。
何か小鹿田焼での決まり事とかがあるのでしょうか?
浩二:あのー、これは実は口伝えなんですよ。こうしてはいけないっていう書面とかは、一切ないです。
だからこそ伝統が守られてきたという部分と、狡さみたいなものがあるんです。
大崎:狡さ、ですか。
浩二:「誰が作ったのか分からない」ようにして売って、返品があってもうちのではない、みたいな。
大崎:なるほど。それは良し悪しですね。
浩二:名前を出していると、その人は名前を売るつもりでなくても、やっぱり名前で売れたりすることもあるんですよ。
そういう人が出たときに、作家になるんじゃないかとか、一人だけ有名になって金持ちになるんじゃないかとか、そういうやっかみ(妬み)もあって。
でもそれは、大昔からの話ではなく、僕の一つ前の世代のからなんですよね。
大崎:意外と、つい最近の話だったんですね。
でもですね、一子相伝のことも、名前を出すことも、第三者の立場から見ると少し違和感を感じる部分があります。
今日、こうして浩二さんにお会いしたいと思ったきっかけは、民藝や小鹿田焼を趣味で集めていく中で、たまたま坂本浩二さんの名前を見つけたんです。
それから、セレクトショップがやっている浩二さんとのコラボの焼き物企画に辿り着いて、4つ、5つまとめ買いしました。
他の小鹿田焼に比べて高価でしたが、素晴らしく美しいと思ったし、とてもモダンで、今の僕らのライフスタイルやセンスにも合うなあと感じたんです。
坂本:ありがとうございます。
小鹿田焼の伝統技法「飛び鉋(かんな)」や、スリップウェアを施した植木鉢。日用づかいの小鹿田焼らしく、モダンで生活に馴染むデザイン。
大崎:きっかけはセレクトショップの企画だったかもしれません。
でも次は「坂本浩二」の小鹿田焼だとわかったうえで買うと思います。
だから名前を出すということは、次の選択の基準の1つになるなって思ったんです。
坂本:実は、今はできるだけ名前を出しているんですよ。名前には責任っていうものがあるから。
その器に対して、自分の名前を出すことはなかなか難しいんですけど、「これは僕の名前も出して売ってください」っていうのはやっていこうと思っています。
大崎:それはいいですね。多分、買う側も作る側にとっても。
坂本:はい。これが日本製なのか海外製なのかと同じように、誰が作ったものなのか見て買ってもらうべきなんじゃないかなと。
大崎:はい。仰る通りだと思います。
浩二:僕は、みんなに名前入りで作品を出してほしいと思っているんです。
そうすることで、自分の作品に対する正当な評価を受けられることにも繋がる。
他他の窯元のみなさんにも、しおりやパンフレットなんかには名前がわかるように入れてくださいってお願いして。昔は名前を入れていない家(窯元)も多かったんですよね。
だから、破損して返品ってなったとき、結局入れてる家に全部電話がかかってきたりしてしまうんです(笑)。
大崎:それは大変ですね。
浩二:仕方ないのでうち(坂本浩二窯)に商品を送り返してもらったりするんですけど、買って割ったのか、売る前に割れてたのかっていうのは、僕らは見たらわかります。
それでもなかには納得いかないお客さんもいて。どうにかしてくれってことで、そこの家に持っていて話をしたり……なんだか窓口みたいですね(笑)。
そんな状況を見た妻からは、「器にもそのちょっとした印をつける方がいいんじゃない?」って言われました。
大崎:確かにそうですね。印入れて欲しいです(笑)。
浩二:名前じゃなくても、例えば屋号があったら、それを印にしてもいいんじゃないかなとか。
大崎:いいですね!
自分の名前で勝負する
大崎:ちなみに一つ気になったんですけど、先ほど「作家になるんじゃないか」っていうお話があったと思いますが、そもそも、小鹿田焼の職人さんは、作家になってはいけないんですか?
浩二:いや、僕としては「なれるものならなってみなさい」って思っています。作家っていうのは、そんな簡単になれないので。
ここ小鹿田でも、ちょっと名前が出て、売れていると勘違いしてる人もいますが、でもそれは、“小鹿田焼”という看板があるからこそ。
その看板をぱっと外したときに、本当に何人が売れるのかっていう。
世の中の作家さんは自分の名前だけで活躍していますが、作品に“小鹿田焼”が、ぽって乗っかるだけで売れていく。
なので、“小鹿田焼”っていう看板を外したときのことを考えてやってくださいっていうことは、言っているんです。
大崎:確かに、流行にのって名前を売るだけでは、なかなか浩二さんのような陶工は育っていかないでしょうね。
浩二:あの、少し変なことを話してしまうと、自分が作った作品じゃないものが自分の名前で売られたりすることもあるんです。
ネットの世界ですからしょうがないんですが……。
大崎:そんなことがあるんですか!? それは嫌ですね。
浩二:僕も見たらすぐに分かるんですよ。
大崎:ご自身ならきっとわかりますよね。やっぱり、ちゃんと名前がわかるようにされた方がいい気がしますね。
浩二:ただ、販売する方々がわからないわけがないので、それも変なんですよ。
名前でどっちが売れるのかとか、そういうことで名前を変えて売っているのかなって思ってしまっていて。
実際、だんだんとそういうのが増えてきているんです。
大崎:良いと思われるものが評価されるべきですし、それが求められるのは、極自然なことだと思います。
だからこそ、お客さんにわかりやすくしてあげることは大切だし、そういう偽名や偽物が出てくることは失くしていくべきだと思います。
その方が、きちんと一つ一つの価値をしっかり生んでいくと思いますね。
食べていくために一子相伝でしかやっていけなかったというお話も含めて、やっぱり一つひとつの作品が、もっと付加価値を生んでいくことが、僕はとても大切なんじゃないかなって思います。
工房に置かれた火入れ前の陶器たち。棚下段の器は、効率よく焼くために重ねられ、重ねられた下の器は中に「蛇の目」と呼ばれる底の跡がつくのが特徴です。上段の器は、縁が重ねられ、釉薬のついてないざらりとした縁が特徴です。
僕が持っている小鹿田焼の中にも、名前や窯元の分からないものがいくつかあります。でもやっぱり名前がある方が、購入させてもらった自分にとっても思い入れがあるんです。
もしも、浩二さん以外の作品が、浩二さんのお名前で売られていることが当たり前になってしまったら、本物の価値も失ってしまうんじゃないでしょうか。
それぞれの作品や個性が守られていく中で、小鹿田焼全体の価値が上がっていくことが大切だと思います。
浩二:その逆に、その器は自分のなのに、僕の名前(坂本浩二)で売られているのは、本人はどう思うんだろうって考えてしまいます。
大崎:確かに、それはちょっと……考えてしまいますね。やっぱり一番いいのはちゃんと印つけることな気がしてきます。
浩二:それが一番いいですよね。
300年間変化し続けてきた小鹿田焼
浩二:こんな中でも、やっぱり変えていかなきゃって話は出てくるんですよ。
ただ、実際は誰が変えるか、いうなれば「誰が悪者になって変えていけるか」っていうところでつまずいて、みんなが中途半端で終わってしまう。
今は自分たちがやらないといけないなっていう感じです。
他にも変えたいものっていうのがたくさんあるんですが、一つずつ変えていこうと思っています。あとは次の世代にも、変えていってもらいたい。
大崎:きっと一つずつでも変えていくことが、次の世代の財産になりますよね。
浩二:実は、300年の歴史の中で、変化してないのは今よりちょっと前の時代の20年だけなんですよ。
常に変化し続けていて、そこにバーナードリーチが来て、民藝運動があってまたそこで変化して。
ただ、その後民芸運動の方々が亡くなり、バブルと言いますか、第一次ブームがあって、それからは変わっていないんです。
なぜか、変化させてはいけない。でも今までは、変化してたはずなのに。
大崎:小鹿田焼のように一子相伝というと、歌舞伎や芸能の世界を同じ難しさがあるんじゃないでしょうか。
やっぱり長く受け継がれてきているものって、必ず変化していると思います。変わり続けないと、きっと続けられないと思うんです。
そう考えると、変わっていくことが、守ることと同じぐらい大事だなと。変わり続けていくことが、伝統を守っていくことなんじゃないかなと思うんですね。
浩二:実は、この20年間で新しい「取り決めごと」ができたんです。
マスコミに対してだとか、世間に売っていくために。今はその「取り決めごと」を守らないといけないことになっている。
器も本当は変化してきてるのに、その「取り決めごと」はまだ残っている。みんなそこは疑問に思っているので、新しいことをやろうとしてます。
ただ問題は、技術的なことを言うと、この20年で下がってきているんですよ。
変化するってことは、やっぱり上がっていくことを目指さないといけない。でもそれ以上に、維持するっていうのが、本当に難しくて。
でも今、もう一歩上がるジャンプをしないと、この仕事が続かなくなるんじゃないかっていう危機感があります。
大崎:そうですね。確かに、維持するだけでも大変なことですよね。
浩二:後継者のことももっと考えなければならないんです。前は10軒あった窯元も、今は9軒になってしまっています。
後継者問題も出てきている。それを考えるとこの先どうなるのか。
今、みんながここに住んでいてこの状況ですからね。
いずれ彼ら(拓磨さん)の世代になると、ここ(小鹿田焼の里)は、仕事場で、自宅は別、というような通いになる。そんな生活スタイルが当たり前になるんじゃないかなと。
小鹿田焼のルーツともいえる原料の土は、集落周辺のみで採取される。赤みがあり鉄分を多く含む土が使われている。
ただそうなってくると、やっぱりここまでの仕事量をこなすっていうのが多分無理になる。
いわゆる9時〜5時でできる仕事じゃないんですよ。朝も早い時は早いし、夜も作業が終わらないことにはやめられないっていう世界で。
そういうことを考えると、ここに住み込まないとなかなか今の仕事のスタイルを続けるのは難しくなってくると思います。
例えば、小石原焼さんあたりは、みなさん既に通いなんですよね。なので、時間短縮を考えると、何かを機械化してっていう世界にはおそらくなっていくと思います。
守り続けたいのは、土と登り窯
浩二:小鹿田焼の中で残していきたいと思っているのは、土を作る製法ですね。多分、あれがなくなった時点で、全て壊れるんじゃないかなって気はするんですよ。
大崎:それが絶対に守らなきゃいけないところなんでしょうね。
全てを守るのではなく、その絶対に守らなきゃいけないところをきちんと見定めることが大切ですね。
浩二:あとは、登り窯。電気で焼いたことがないので、電気が悪いとか、ガスが悪いとかという訳ではないんですけど。
登りをずっとやってると、毎回毎回同じものっていうのがなく、(器の)顔が違うので、「いっぱい兄弟ができたね」っていう感覚なんですよ。クローンじゃないっていうか(笑)。
兄弟がいっぱいできたなっていう気持ちになるんで、登り窯は残していきたいなっていう。
ただ、登り窯を残すためにはそのための技術と、あとは維持するのにかなりお金がかかるので、その面ではいろんなこと考えないといけない。薪も手に入りにくくなってきていて。
今までは、日田の街は家具でも有名なので、端材をもらっているんですけど、そこも全てオートメーション化されて。端材がだんだん手に入らなくなってくる。
さらに、九州や関西から薪を送ってもらうとなると、今度はそのコストを器に乗っけることになるんで、それで値段も上がってしまう。
ただ、値段を上げるためには、それだけの品物を作らないといけない。
大崎:新しい価値を生まないとですね。
浩二:そうですね。ただただ値段を上げるだけではダメ。
やっぱりちょっと、そのことにみんながきちんと向き合っていく必要があると思います。本当にこのままでは、少しずつ減っていってもしょうがない。
大崎:それは、民藝ファンや消費者にとっても困ります。
浩二:そういう切実な気持ちで(小鹿田焼の)みんなにも値付けをやっていただきたいんですけどね。
ただただ、世間が値段を上げているからとかではなく。本当に今も、かなりぎりぎりというか。
まあ、酒飲めるぐらいのぎりぎりです(笑)。
大崎:浩二さんにとって、値付けというか、適正価格って何ですか?
浩二 まあ、自分が買える、この値段だったら自分は買うよね? っていう値段にしています。
僕はこの値段では買わないけど、他人にはこれで買ってっていうのは嫌なんですよね。
大崎:素敵な考え方ですね。僕は日常使いのために小鹿田焼を購入していますが、やっぱり日本の器にはもっと価値があると思うし、そうお客さんに理解していただくことは可能なんじゃないかなと僕は思っています。
SDGsとかサスティナブルとか。伝統工芸にも深く関係する言葉をあちこちで見かける時代です。
小鹿田焼の里のみなさんがやっていらっしゃることは、もっともっと付加価値をつけることができる商品だと思っています。なので、もっと胸を張って強気の値付けでもよいと思います(笑)。
浩二:はははははっ(笑)そう言ってもらえると嬉しいです。
小鹿田焼の里に求められる、新しい働き方
大崎:現在、他の窯元も含めて、小鹿田焼のみなさんは、自分の息子さんに継がせていらっしゃるのでしょうか?
浩二:そうですね。娘さんしかいないところもありますけど、実際は男だけなんです。
女性の方にもどんどんやってもらいたいんですけど、どうしても子育て期間の問題があります。その期間中は休むっていうのが、現実的に難しい。
作ってなんぼの世界なので、なかなか実際やっていくのが難しいんですよ。
ただ、ひと昔前の先輩たちは、女性の後継はノーだったんですけど、自分たちの世代からすると、もうイエスなのでやってもいいと思っています。
大崎:そうした考え方が大事なのかもしれないですね。時代によって価値観が変わるように、伝統や文化も変わるもの。
昔が間違ってて今が正しいとかではなくて、時代によって変わっていくことは、素直にいいことなんじゃないかなって思っています。
浩二:変化は大切ですが、技術がきちんとベースにあってのことなんですよね。よく僕は、若い職人に「できないって言うな」って言うんです。
「プロでやってる人ができないなら、プロ辞めなきゃいけないよね。じゃあ、できるように頑張りなさいって(笑)」
だから、“小鹿田焼”という名前にのっかってじゃなくて、ちゃんと個人の力で勝負して、「卸業者や販売店の方には名前を出してもいいですよ」って、これからの若手には胸を張っていってほしいですよね。
大崎:きっと、小鹿田焼のみなさんにとってもその方がいいですね。その中で、個性や技術の差があって。切磋琢磨していくというか。
今回のインタビューをきっかけに、浩二さんに作陶していただいたマグカップ。
偶然の不便さゆえ、守られてきた小鹿田焼
浩二:ちっちゃいこの不便な谷間でやっていることも、小鹿田焼の伝統が守られていることと関係していると思います。小石原さんの場合は土地が平らなので、窯元以外の方も家も立てやすい。
でも、ここ小鹿田の里はっていうと、合計14軒しかありませんが、ほとんどが土着の人間だけです。蕎麦屋さん、大工さん、左官さん、酒屋さんなど、それぞれ役割があるんですよ。そういう中で小鹿田焼の村が成り立っている。
沖縄なんかも特にそうなんですけども、どんどん器に関係ない方々が集まって街になっていくのですが、結果、煙が問題になって、「窯を燃やせない」なんてことが起こってくる。それがここにはないんですよね。
他の人たちが住むには条件がめちゃくちゃ悪かったおかげで、小鹿田焼の里は今でもそのままの形で残っている。
道路を広げたいって言っても無理なんです。それができてしまっていたら、小鹿田焼は残っていなかったと思います。
大崎:なるほど。そういう要因もあったんですね。
集落の中を川が流れ、その川の水を利用して陶土を砕く「唐臼」(からうす)が動かされ、時折唐臼が陶土を挽く音が聞こえてくる。その音は「日本の音風景100選」にも選ばれている。
浩二:だから、本当に偶然なんですね。
陶工って、本来は街中から静かな山の中に移り住んで営む世界なんです。でも僕らの場合、最初からここに居るんで(笑)。
そういう中では違和感もなく、生活には多少の不便はありますが、現代は車も携帯もありますし、あまり困ることもない。
わざわざここに来たんでなく、最初からここに住んでいたっていう。偶然的に田舎の山間で、この仕事していることに意味があるんじゃないかなって気もします。
ちっちゃい谷と川があって、土があって、この風景も含めてですかね。
本当に昔から変わってないので、新しくなったのは家だけです。さすがにもう茅葺ではありません(笑)。
大崎:今日はすごく勉強になりました。東京から来た甲斐がありました。
浩二さん、本当に貴重なお時間をありがとうございました。
※1 小鹿田焼陶芸館のこと。小鹿田焼に関する陶磁器資料を展示している。
今回、事前取材としてインタビュー前に訪問した。