陶芸は楽しいもの。民藝界のサラブレッド、ふもと窯・井上亮我の陶芸人生が始まる。

陶芸は楽しいもの。民藝界のサラブレッド、ふもと窯・井上亮我の陶芸人生が始まる。

「IEGNIM」が贈る民藝シリーズ「ミライのミンゲイ」。第15回目はシリーズ最年少での登場となる小代焼・ふもと窯の井上亮我さん。岩井窯・山本教行さんの下での修行を経て、今年4月よりふもと窯へ帰還。偉大な祖父と父を持ち、民藝界カリスマの最後の弟子と言われた弱冠23歳。既に注目が高まる小代焼のホープに、作陶家としての歩みを始めたこのタイミングで心境を伺いました。

(プロフィール)
井上亮我(りょうが)
2000年生まれ。祖父は現在の日本民藝協会会長であり小代焼の第一人者・井上泰秋氏。父はスリップウェアの名手として知られる尚之氏。短大を卒業後、現在の民藝界を牽引する最重要人物のひとりであり絶大な人気を誇る岩井窯・山本教行氏に師事。2年半の修行ののち、2024年よりふもと窯へ戻り父・尚之氏のもとで作陶に励んでいる。

インタビューはふもと窯の工房にて。亮我さんの話に、父・尚之さんも作業をしながら耳を傾ける。

岩井窯での修行を終え、ふもと窯へ

── 岩井窯での修行を3月いっぱいで終えられて、ふもと窯へ戻られたわけですが。修行はどれくらいの期間行っていたんですか?

2年半ですね。

── 2年半というのは、最初からある程度決めていた期間だったんですか?

 父は「3年行ってきなさい」と言っていたんですけど、 帰ってきてろくろを早めにどんどん引いた方がいいという周りからのアドバイスもあったので当初は2年の予定でした。ですが、結局修行を始めて半年経ったくらいには2年では足りないということに気がつきまして、半年延長しました。

──(岩井窯の)山本先生のところだとそんなにろくろは回せないんですか?

 先生の型おこしの仕事がメインになるので、それ以外の時間で回すことはできるんですけど、やはり数をこなすってなると帰ってきてからの方がやりやすいですね。個人的にも早く自分の仕事がしたいっていうのもありましたので。自分の名前を売るために作品を作りたいっていう気持ちがありました。

修業先の岩井窯と同様に、蹴ろくろを使う。ろくろを回しているときは無心ではなく形のことはもちろんのこと、趣味の釣りのことなども考えるそう。

保険としか思っていなかった陶芸の道

── おいくつになられたんですか?

23歳です。今年24になる歳ですね。修行へ行ったのは21歳から。高校卒業して、半年は短大に行って建築を学んでいました。父も陶芸を勉強するより他のことを勉強した方がいいと言っていましたし。 陶芸は親から学べるので。

 ── 小さい頃から自分はこの世界を継いでいくんだっていう気持ちはずっとあったんですか。

 意識し始めたのは高校3年生ぐらいですかね。一応進学校だったので大学に行きたいとは思ってました。でも将来どこかの会社に就職して、誰かのもとで働くというイメージができなかったんです。だったら、自分が好きなことで生きていきたい、暮らしていきたいっていう欲があって。小学生の頃から絵を描いたり、物を作ったりすることがすごく好きだったので、陶芸をやってみようかなと。あと父とか父の周りの方々の話も聞いていて魅力に感じていましたし、すごくよくしてくれていたので。

 ── その時はまだ陶工になる明確なイメージはなかったんですね。

 父はずっと「お前には保険があるから」って言ってくれていたんです。他でもうダメだってなっても大丈夫だよと言ってくれていたので、僕もこの道は保険としか思ってなかったです(笑)。継いで欲しいと言われたことは一度もありませんし、自由にしなさい、好きなことをやったらいいと言われていたので、自分もちゃんとは考えてなかったです。

普段、親子並んで作業することはない。「個人の名前で行けるようになったら、父から許可が降りると思うんですけど。まだまだ先ですね」

“山本教行” という人間に憧れて

── 修行先としてはいろいろな選択肢があったかと思いますが、どうして岩井窯を選んだのでしょうか?

 山本教行先生とお会いした時に、先生の生き方というか、暮らし方にすごく憧れたからです。人生で初めて大人に惚れたんです。先生の『暮らしを手づくりする』という本にも感動して、もうこの人じゃなきゃダメだって思って決めました。先生の作品に憧れてというよりも、“山本教行”という人間に憧れて入ったって感じです。

 ── いくつかの窯を回ってから最終的に決められたんですか。

 父が候補をいくつか出してくれて、その中から自分で絞っていきました。もちろんいくつか回りましたが、岩井窯に行った時に環境がすごく落ち着いていて、仕事がしやすそうだなと感じたんです。仕事している自分がイメージできたんですよね。

 ── どんな修行時代でしたか?

 基本的には見て覚えるスタイルです。先生からはあまり言われなかったので、自分から質問することの方が多かったです。弟子になる前に父からは、一緒に仕事しているだけで、帰ってきた時に「あ、先生はこういう仕事やっていたな」というのがだんだんわかってくるから、そんなに難しく考えなくていいって言われたんです。ですので、自分もそういう心構えでいました。 ふもと窯に帰ってきてそのことはすごく実感していて。先生のやり方をメモとかはしていないんですけど、勝手に頭に入っているので、こういう感じだったなって思い出しながらやっています。修行って言っていいのかっていうぐらい楽しめましたし、本当に暇がなくて家では寝るだけ。それぐらい充実していました。

岩井窯での話を笑顔で語る亮我さん。その表情からも充実した修行時代だったことがうかがえる。言葉の端々から感じるのは山本先生への圧倒的な尊敬の念。

みんなに使ってもらえる食器を

── ふもと窯に戻られてからはどのような仕事をされていますか。

 父の個展が5月頭に2か所あったので帰ってきてすぐに窯炊きの準備をして、さっそく父の型のものを作っていました。それと小代焼のろくろのものをやったりしましたけど、やっぱり岩井窯で作っていた型とも全然違うのでまだまだですね。山本先生が蹴ろくろだったので、こっちでも蹴ろくろで回しています。祖父が使っていたものが1台あったのでそれを使わせてもらっているのですが、先生のところのものと、大きさも重さも全く違うので慣れるまで時間がかかりました。それでも2週間ぐらい回してたら慣れましたけど、最初は少し苦戦しましたね。

 ── 自分の中で、作りたいもののイメージはあるんですか。

 食器がメインになると思います。やっぱり自分は使ってもらってなんぼっていうのがあるので。

大のコーヒー好きである亮我さん。こだわりが詰まったマグの試作品も見せていただいた。

きつい仕事も全部楽しいと思える

── ふもと窯3代目のプレッシャーはないですか?

よく聞かれるんですけど「父にできて、俺にできないことないからって」思うんです(笑)。

 ── かなりすごいお父様だと思うんですが。

 (ここで近くで聞いていた父・尚之さんが発言)俺ができることは多分みんなできるはずなんです。でも、やっぱり息子とかになってくると、苦労はしてもらいたくないよねっていう気持ちはあるので。自分が苦労したことだけは息子には止めたいなとは思いますね。

 ── 尚之さんはそうおっしゃっていますが、修行時代含めて辛かったなとか苦労したなみたいな経験は今のところははないですか?

 自分をそんなに追い込むタイプではないので。1日あったら開き直るタイプなんです。もちろん、1日仕事終わって、もう今日はこれがダメだ、あれがダメだったって反省はいっぱいあるんです。 でも次の日には前を向かないと、進まないので。自分で自己暗示かけて、反省したらもう次に切り替える。自分を追い込んで、自分はダメだみたいな感じでくじけるタイプじゃないんです。

 ── でも修業含めてすごく大変な部分もあると思うんです。それは人によっても感じ方が違うんですかね。おっしゃる通り、そこに嘘はない気がするんですけど、もしかしたら普通の人にとっては大変だと思うけども、亮我さんは感じなかったりするだけなのかなと。

全部楽しいと思うようにしています。きつい薪仕事だったり、力仕事だったり、いろいろあると思うんですけど、別にそれはそれで。父の影響もあるかもしれないですね。仕事がきついとか、そういうネガティブ発言は子どもの時から聞いたことがなかったので。だから、陶芸に対しての悪いイメージとか、きついとか、しんどいイメージが全くなかったので、そういう方向に持っていくっていうことが自分の中にないのかもしれないですね。

陶芸に対するネガティブなイメージがなかったという亮我さん。父・尚之さん譲りの前向きな姿勢で日々の仕事に取り組んでいる。

 

── ふもと窯でのお仕事は、どんなところに楽しさを感じますか。

 1つのものに対して、いろいろな人が意見を言ってくれるんですよ。例えば濱田庄司の作品を見て、ここがいいよねみたいな。そういう話をいろいろな人がいろいろな方向からしているのを聞けるのがすごく面白くて。その会話に自分も入っていけるっていうのが楽しいんですよね。 ふもと窯では、自分が作ったものに対しても結構みんなが意見を言ってくれるんです。父からは容赦なく下手くそだねって言われますけど。それはすごくうれしくて、すぐ改善しようと思いますし、そういうところが楽しいですね。

取材をしていたこの日も、工房にふらっと知り合いの方々が。自然とものづくりの会話がはじまる。こんな日常が亮我さんのまわりにはある。

堅苦しいイメージを変えていきたい

── 亮我さんは23歳ですが、同世代の横のつながりとかもあるんですか。

 あんまりないんですよね。同世代といっても、(岩井窯の)兄弟子にあたる小鹿田の坂本創くんが10個ぐらい上ですし。あとは倉敷の三宅康太くんも話したことがありますけれど年齢は少し離れているんですよね。

 ── これからの作り手として、ちょっとおおげさかもしれないですけど、この世界を変えてみたいなど、自分なりに思い描いていることはありますか? 若い世代の仲間たちと一緒にでもいいんですけど。

正直、僕らの世代って民藝とか陶芸とかに対して、難しいとかちょっと堅苦しいみたいなイメージがどうしてもあると思うんです。これを徐々に変えていけたらとは思うんですけど、なかなか難しいです。でもうつわに興味を持ってくれている若い方は増えているイメージがあります。山本先生のうつわを買いに来る方も、結構お若かったりするので。そういった方は増えているとは思うので、作り手側の僕らの世代でも盛り上げていけたらなと思うんですけど、まずは若い世代の繋がりをもっと深めていきたいですね。

小さい頃から慣れ親しんだのぼり窯の横で。はじめて手伝った記憶は小学校5年生。これからは亮我さんの作品もここから生み出されていく。

写真/大崎 安芸路(Roaster)  取材・文/阿久澤 慎吾(Roaster)

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