袖師窯らしさとは。五代目尾野友彦が向き合うのは、 歴史とともに育まれた誠実なものづくり。

袖師窯らしさとは。五代目尾野友彦が向き合うのは、 歴史とともに育まれた誠実なものづくり。

「IEGNIM(イグニン)」が贈る民藝シリーズ「ミライのミンゲイ」。

第11回目は松江・宍道湖畔の地で145年以上の歴史を誇る「袖師窯」の五代目尾野友彦さん。若い世代にも人気の民藝の窯として知られる「袖師窯」のこれまでとこれから。そして今回「IEGNIM」のために制作していただいたオリジナルの器についてもお話を伺いました。

尾野友彦さん 
1972年、袖師窯四代目・尾野晋也氏の次男として生まれる。1998年より袖師窯にて作陶を開始。2003年より栃木県益子にて人間国宝・島岡達三氏に師事。2013年に袖師窯五代目を継承し今日に至る。

袖師窯とは
1877年に初代 尾野友市氏が松江市上乃木皇子坂に開窯。1893年に二代目・岩次郎氏が袖師浦に窯場を移す。三代目・敏郎氏の時代に民藝運動に参加すると、今日まで柳宗悦、河井寛次郎、バーナード・リーチの指導を受けた民藝の窯として知られる。地元の原料、技法に新しい感覚を織り交ぜながら長きにわたり日用品としての焼き物を作り続けている。


袖師窯の歴史をまとめた作品集を広げながらインタビューに答えてくださった友彦さん。お人柄が感じられる穏やかな語り口が印象的。

雑器から上手物。そして民藝へ。

──145年以上の歴史がある袖師窯ですが、始まりは別の場所だったのですね。

「初代の尾野友市が1877年(明治10年)に松江市上乃木皇子坂に開窯しました。ここから1kmくらい山手の方です。粘土が取れる場所があり、その辺りで始めました。当時は馬の背中に荷物を乗せて運んでいたようでかなり大変だったと聞いております。そして1893年(明治26年)に現在の袖師浦へ移ってきました。昭和40年代に埋め立ててしまったのですが、当時この工房の前まで宍道湖の水際だったんです。水辺だったので荷物を運ぶ船の出入りがしやすかったのでこの場所を選んだようです」

──袖師窯といえば民藝の窯元として知られていますが、 民藝に移行されたのは三代目の敏郎さんの時代からだと伺っております。どういった経緯があったのでしょうか?

 「初代の友市は布志名焼で知られる玉湯の出身。独立する前は布志名で陶工をしていました。江戸時代の殿様の御用窯が数軒あって、その周りに民間の窯がいくつかあるような場所です。その布志名焼の特徴である黄釉のものは江戸時代は殿様用の道具でしたが、明治に入ってから民間にも開かれたことで、私たち含めこの辺り一帯でも作るようになりました。明治から大正初期のことです。北前船で全国に出荷していたようです。これが全国で売れるので次第に他の産地でも作られるようになり、量産されるようになった。そうすると価格競争で、それに対抗しようと安くしたのですが、その結果質も落ちてしまい、この辺一帯の窯戸がほぼなくなってしまうような状況になったそうです」


明治から大正初期に、袖師窯で作っていた黄釉の器の例。

──そういう中で民藝運動というのは始まってくるわけですね。

河井寛次郎先生の同級生で、太田直行さんという方が居られるんですけど、島根の作り手が困っているからお話ししに来てみてくれないかと河井先生にお願いされて。昭和6年に「島根工芸診察」として、一週間かけて島根各地を視察されて、松江で講演をされました。そこに三代目袖師窯の敏郎と布志名の舩木道忠さん、湯町窯の福間貴士さん、人間国宝の和紙職人安部榮四郎さんなどと一緒に参加することになり、民藝をやってみようという話になったようです

──当時はどんなものを作っていたんですか?

 「もともと雑器を作っていましたが、一時期いわゆる上手物を作っていたんです。しかし、柳宗悦からするとこういったものは不健康。すごく低温で焼くんですよ。薄作りでもろくて、上品な焼き物なんです。こういうものじゃなくて生活に馴染むような高温で焼く頑丈なものを作りなさいという指導を受けて民藝運動の方に入っていくというイメージですね」

──1958年にはブリュッセル万国博にて「掛分酒器」がグランプリを受賞されました。国際的な評価を得て袖師窯として何か変化はありましたでしょうか?

 「影響の方はよくわからないですが、この辺りの作り手の方たちにはとても喜ばれたそうです。柿釉という近所で採れる石を使った釉薬で特徴的なものなんですけど。それを斜めにかける「掛分」という民藝ではよくある手法を用いています」


「掛分酒器」。その他にも、茶褐色が特徴の地元で作られた材料である柿釉を使った器も多い。

きちんとしたものづくり。それしか考えていない。

 ──友彦さんご自身についてもお聞かせください。まず家業を継ぐことについてはどのようにお考えだったのでしょうか?

「子どもの頃は考えてなかったです。この仕事がなんなのかもよく分かってなかったですから。ただの遊び場でしかなかったですね。伝統や歴史があるとも思ってなかったですし、周りから言われてもポカーンでしたね。ただいずれはやるのかなと思いながら。何かほかにもないかなと考えたりもしていました」

 ──他にやりたいことがあったんですか?

「結局、それが見つからなかったんですね。販売とかに興味があった時期もあったんですけど。高校生くらいになると洋服買いに行ったりするじゃないですか。そうすると販売の仕事も面白そうだなと。でも今考えれば向いてなかったですね。そっちに行かなくてよかったなって思います(笑)」

 ──作るよりものを売ることに意識もおありだったんですね。そうすると袖師窯の商品を販売するということについて意識されていることはありますか?

「自分から発信してということはないので、この場所に来て買ってくださる方や、私たちのことを良いなと思ってくださるお店と合えば販売していただいています。相性もあるんですよね。ここでは売れないものでも、卸した先では売れることもあれば。よく売れる店に卸しても、まったく売れないこともある。やってみないとわからないので、声をかけていただいたらまずはやってみて、よければ継続していくというスタンスです。少しずつやっていければと思っています」


工房の2階が展示販売スペースになっており商品の購入が可能。営業時間は9時〜18時(日曜定休)

──地元の陶土や原料にこだわり、すべての工程を昔ながらの手仕事で行われていますが、器を作る上で大切にされていることを伺えますでしょうか。

「きちんとしたものを作る。それしか考えてないです。万人に受けるって無理なので。袖師窯の器を好んでくださっている方が納得できるものであればいいのかなと。人が使うものなので使いやすいかどうか。使いたくなるかどうか。そこにはしっかり向き合っていきたいなと思っています」

袖師窯らしさを体現するバランスとは。

──先代とかおじいさまと比べられて自分は違うなと思うところはありますか?

「真似しているつもりはないのですが、似ているところはある気がします。それが何かと口に出すのは難しいのですが。結局、教えられるときに、ふわっとしたことを言われるわけです。でもそれを次に自分が職人に伝えるときに同じことを言ってるんですね。ふわっと。自分もこう言われてわからなかったのに(笑)」

 ──なるほど。では、友彦さんのイメージと違うものが職人さんから上がってきたときはどうするんですか?

 「そういうときはいっぱいあります。それが(袖師窯の)幅の中に収まっていればいいのですが、外れたときはどうしようかなと。そしてこれ以上外れないためにはどうしたら良いか、内側に入れていくイメージですね。それでは真ん中はどこなの?って言われても真ん中は別にないんですよね。それが袖師窯らしさっていうことになるかもしれないのですが、言いようがないので「バランスが良ければいい」と伝えています」

──それは一番難しそうです(笑)。

 「バランスとしか言いようがないんです。厚みがありすぎる、薄すぎる。下が狭すぎる、口外が大きすぎる。高すぎる、低すぎる。あと何ミリどうするっていう話ではなくて、持った時のバランスが良くないとか。経験を積むことでそのバランスが掴めてくるものだと思います」

 ──そのバランスの中には色味も含まれますか?

 「色になると釉薬のかけ方に関わってくるのですが、とても微妙なんです。例えば100個の器に同じ釉薬をかけているとその間にどんどん変わってきます。最初と最後では色の濃さがぜんぜん違うので、少しずつ調整しながら進めないといけないんですね。その調整は感覚なんです。その時の窯の温度などにも影響されますし。それこそ大きく外れてなければお店には出しています。最終的にはお客様がいいなと思っていただければ良いので」


工房はもともと漁師の網小屋だったという築120年以上の風情ある建物。今もすべての工程が昔ながらの手仕事で行われている。

シンプルな単色から多色模様の時代に。

──そこには時代による暮らしの変化や流行なども影響されていますか?

 「80〜90年代のバブルの頃から生活様式が大きく変わりました。それまで畳と電球の家からフローリングと蛍光灯の家になった。世の中が明るくなると明るい食器が好まれるようになったんです。器の内側を白くしたものとか、青いものとか。そう言う中での流行もあって、シンプルで単色で明るい色が受け入れられだした。その頃は外に色や模様があっても、中は白くあるべき。料理が映えるから内側に模様があると好ましくない。みたいなところがありました。

それが2000年代に入ると、スリップウェア(「スリップ装飾」と呼ばれる、粘土を用いた縞模様や格子模様などの装飾を施した器)がすごく流行りました。スリップウェアって定期的に流行るんです。写真映えもするのでスマホで撮影されたりして。そうすると中に模様があることに抵抗がなくなってきたんですね。いろいろな模様が受け入れられるようになってきた。内側も白くなくていいし、模様があってもいい。やり過ぎはよくないですけど。そんな感じで少しずつ色や模様も増えている流れになっていると言うのは感じます。私の主観ですが」

──袖師窯にもそういうものを求められているなと感じていらっしゃいますか?

「ここには無地のものと模様があるものを両方とも置いていますが、無地のものより模様があるものを手にとる方が多いというのは感じます」


袖師窯を代表する「二彩」シリーズ(写真中央)。飴色と碧色の2種類の釉薬で模様が描かれている。

別注したマグカップとカフェオレボウル。

 ──今回IEGNIMのために作っていただいた器について伺いますが、IEGNIM代表の大崎が初めてこちらに伺ったのが3年前。そのあと何度かこちらの工房にお邪魔して、もしよろしければ何かご一緒させてくださいとお願いさせていただいたんですよね。

 「そうでしたね。今回は既存のマグカップとカフェオレボウルをベースにご希望に沿って作らせていただきました。マグカップは少し口径を小さくしたり、下部を台形に近くアレンジしています。カフェオレボウルも女性でも持ちやすいサイズ感にしました」

──大崎からは「カフェオレボウルは耳がついているので、持った時に安定するし、ついていると可愛い。その他にも袖師窯らしい釉薬の流れを作りたかったので使う釉薬についてもいろいろリクエストさせていただいた」と聞いております。

「どんな方も最初はわからないのですが、何回か続けているとこの人はこういうものを求めているのだろうなとわかってくる。そうするとそれに向けて作ることができるようになるんですね」

 ──試作も何度もしていただいたんですよね。


IEGNIM別注のマグカップとカフェオレボウルは「IEGNIM」のオンラインストアにて販売中。

使っている人の話を聞いた時がこの仕事で一番楽しい。

──最後に民藝のこれからと袖師窯の今後についてお考えを伺ってもよろしいでしょうか?

「民藝についてはよくわからないです。自分が民藝作家かと言われればそうではないですし。民藝の中にもいろいろな人がいますし、民藝はこうあるべきというのもないと思うんです。自分の中でも、これは民藝でこれは民藝じゃないという線引きはしないですし。民藝を作ろうとか、極めようとかそういう意識はありません。

 

「今いただいている注文にしっかりと応えること。その間に新しいことも少しずつやっていきたいですね」と友彦さん。今は大型の花瓶を作ってみたいと考えているそう。

それよりも「使いやすさ」。手に持ったり、口につけたりするものなので、その感覚を大切にしたいです。それと、この仕事をやっていて一番楽しいのは使っている人の話を聞いた時なんです。「こうなっていたらもっと良かったのに!」みたいな話を聞きたい。だから今回作ったマグカップやカフェオレボウルについてもぜひ使ってみた感想を聞いてみたいですね」

 

写真/大崎 安芸路(Roaster)  取材・文/阿久澤 慎吾(Roaster)

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