「IEGNIM(イグニン)」が贈る民藝シリーズ「ミライのミンゲイ」。第12回目は約400年続く小石原焼にあって、民藝の流れを汲んだものづくりに励んでいる「太田哲三窯」へ。哲三さんと息子の圭さんの二人三脚で、小石原の伝統を受け継ぎ、用途に忠実なもの作りを続けているその想いを伺いました。
太田哲三
1950年、太田熊雄氏の三男として生まれる。佐賀県立有田工業高校窯業科を卒業後、父・熊雄氏に師事。七年間の修行ののち、1975年に分家を許されて現在地にて独立。その後、日本民芸館展、西日本陶芸展、日本民芸公募展、日本陶芸展など多数入選。2021年には「現代の名工」にも選ばれている。
太田圭
1974年、哲三氏の長男として生まれる。佐賀県立有田窯業大学校ろくろ研修科卒業後、父・哲三氏に師事。日本民芸館展入賞、日本民芸公募展入賞、日本陶芸展入選など多数入選。父・哲三さんと二人で小石原焼の伝統や技法を守りながら器づくりを続けている。
小石原焼とは
福岡県の現在の朝倉郡東峰村で焼かれている伝統の焼物。1682年に筑前福岡藩の三代目藩主が磁器の生産が盛んだった伊万里にならい、焼物を作り始めたのが起源。小石原の技術を持った陶工たちが山を越えて小鹿田に渡ったことから、小鹿田焼とは兄弟窯とされている。小石原焼は「飛び鉋」や「刷毛目」と呼ばれる技法を用いた、整然としながら温かみのある柄が特徴。現在も約40軒の窯元が構えている。
昭和30年頃からの民藝運動の高まりとともに窯元が増えた小石原。中心を通る国道211号沿いには太田哲三窯をはじめ多くの窯元が立ち並ぶ。
400年の歴史に訪れた大きな変化。
──お二人の経歴からまずはお聞かせください。
太田哲三(以下、哲三):私は窯元の三男として生まれました。小さい頃から父・熊雄のそばでずっと焼き物の仕事を見ていましたので、自分の進む道も焼き物だと思い、有田工業高校窯業(ようぎょう)科に進みました。そこで三年間学んで帰ってきてから、父のもとでさらに七年間修行しました。
──これまでにもいくつかの窯元に取材させていただきましたが、多くが長男しか継げないということを伺っておりました。次男や三男でも、こうやって続けられたのは窯元として大きかったからということですか?
哲三:父も三男でした。当時は継ぐのは長男だけという制度があったのですが、父はやはり自分の窯が持ちたいということで、小石原ではじめて個人窯を築いたのです。それ以来、次男、三男、そしてよそから弟子に来た人間でも始めてよいという風潮になったと聞いております。
──400年の歴史がある中で、お父様の時代に1つ大きな変化があったわけですね。
哲三:そのようです。七年間、父の元で修行したのちに分家をしまして、この地で開窯しました。この国道沿いに出てきた時にはほとんど窯元はありませんでした。本当にポツンと一軒家みたいな感じでした。
ど んな質問にも明快に答えてくださる哲三さん。父・熊雄さんの元には多くの民藝関係者が出入りしていたという。そんな環境もあり小さい頃から「民藝」という言葉を聞いて育ってきた。
穏やかな語り口ながら、言葉の端々に職人としての強い信念を感じる圭さん。高校生になる息子さんもこの仕事に興味は持ってくれているという。
見て学ぶ。陶工としてのあり方を学んだ厳しい修行時代。
──圭さんはいかがでしょうか?
太田圭(以下、圭):私も同じ有田工業高校窯業科へ進みました。それから、その隣に窯業大学校というのができまして、そちらのろくろ研修科というところで一年間学んで、19歳の時に帰ってきました。以降、父のもとで一緒 にやっております。
──圭さんは最初から将来は家業を継ごうというお気持ちだったんですか?
圭:そうですね。小さい頃から見ておりましたし、自分は最初からそのつもりでおりました。普通の仕事よりは向いているかなと思っていますし、ものづくりが好きなので。
哲三:親の気持ちを汲んでくれているっていうところもあるでしょうね。やっぱり継ぐとなるとまずは長男ということになりますから。
──厳しい修行時代だったと聞いておりますが、どんなことをされたんですか。
哲三:私の時は寝食をともにするお弟子さんが3、4人いました。まずろくろをはじめるというよりは、 土を作る仕事だったり、父の作業の準備をしながら見て覚えろという感じでした。それから少しずつ小さい湯呑みから始めて、ろくろに入らせてもらえる。父からは陶工としてのあり方を厳しく教えてもらいました。
圭:私も同じです。蹴(け)ろくろの使い方など小石原の伝統的な技法がありますので、それは教えてもらいますが、やはり基本的には見て覚えるということですね。
厳しい修行時代から膨大な量の器を作ってきた哲三さんはろくろの名手としても知られる。蹴ろくろを自在に操り熟練の技術で成形していく。
「ものづくりが好き」という圭さん。黙々と作業を続けるその姿からは、培われた技術とともに、ひとつひとつ丁寧に作られていることが伝わってくる。
──小石原焼の伝統的な技法についてもう少し詳しく教えていただけますか。
哲三:まずろくろに向かって仕事をするときは、蹴ろくろを使います。それから小石原焼きの技法で「練り付け」という手法があります。大物を作るときのやり方で、棒状に伸ばした粘土を巻きながら上に積み重ねていくのですがそれも習います。それから小石原焼は装飾がありますので「飛び鉋」「刷毛目」「櫛目」「指描き」「流し掛け」「打ち掛け」といった技法がたくさんありますので、仕事を一緒にしながら自分で覚えていくという感じですね。
小石原焼と小鹿田焼の兄弟関係。
──原料についてはいかがでしょうか?
哲三:昔は各窯元で土を取ってきて陶土を作っていたのですが、今は陶器組合が重機でまとめて掘るところから一括して作っているので、それを使っています。
圭:小石原の粘土は鉄分が多く、それから、火に強いですね。そこが焼き物を作る上での最大限の特徴じゃないかと思います。
──小石原焼と小鹿田焼は兄弟窯と言われますが土は違うのですか?
哲三:小鹿田の土は小石原よりもっと鉄分が多いです。それで耐火度は小鹿田の方が少し低いので、例えば小鹿田の焼き物をこちらの窯で一緒に焼いてみると、カエルの肌みたいな感じで、ポツポツ膨れてくるんですね。それは小鹿田の土にとっては焼きすぎ、温度が高いということですよね。小石原から小鹿田へ派生したわけですが、それも徒弟制度があって長男しか継げないから次男、三男の人が向こうに行ったり、養子に入ったりして、始めたそうです。あとは良い土があったからでしょう。やはり土が命だからですね。焼き物に適した土が出るところに窯場ができるんです。
化粧土と呼ばれる鉄分の少ない白い色をした陶土を皿の表面にむらなく掛けさまざまな模様を付けていく。本来小石原焼は素焼きをしていなかったが、生産性を安定させるため近年では取り入れている窯元も多い。太田哲三窯はこれまでの作り方を継承し素焼きを一切行っていない。
──小鹿田も窯元が少なくなってきたようですが、こちらはどうですか?
圭:50軒くらいありましたが今は減ってると思います。やはり後継者がいないところが多いですね。お弟子さん自体も少ないですし。
哲三:昭和40年代は一軒に1人ずつとか、多いところは3人とか4人とかいましたけどね。
──ふもと窯の井上尚之さんも取材させていただくのですが、こちらで修行されていたんですよね?
哲三:弟子を取るつもりはなかったのですが、尚之くんのお父さんも知り合いという縁もありましたし。ここに来ても勉強になるかどうかわからないぞと断っていたんですけど、やっぱり本人が熱心だったので。自分ができる範囲のことは教えてやろうかと思い受け入れさせてもらったんです。四年間寝食を共にしていましたね。
圭:尚之くんの方が2歳下くらいで同世代でしたし、技術的なところも同じくらいからのスタートでしたから。今でも交流はあります。なかなか最近は会えてないですが。
登り窯を炊くのは年に二回。小石原でも使っている窯元は少なくなってきたという。哲三さんと圭さんの二人で夜通し作業を行う。
メインで使っているガス窯は高さ2メートルを超える大きさ。有田で築炉屋を営んでいた哲三さんの友人から譲り受けたという。
実現しなかった濱田庄司への弟子入り。
──太田哲三窯さんは民藝の窯としても知られていますが、どのような関わりだったのでしょうか。
哲三:濱田庄司先生や多くの民藝の人たちが父のところに出入りしていたので小さい頃から「民藝」という言葉は知っていました。自分が修行に出る時も、父から「1度は外に出てこい」と言われまして。それで浜田先生のところに訪ねて行ったんですね。しかし、浜田先生からは「あなたのところには1番いい先生が身近にいるじゃないか」と。だから、自分のところに来てもそれは無駄なことだというふうに言われまして、父のそばでやりなさいということで断念したんです。
──お父様も浜田先生から教えていただいたことはあるんですか?
哲三:そういう関係ではなかったのですが、父は民藝協会の会員でしたので交流はあったようです。河井寛次郎先生が来た時に、父の作る姿や物を見て、「これはお前から全部買うから全部くれ」と。そんなことがあったと本に書いてありました。
──お父様は民藝に対して意識が高かったんですね。
哲三:父としては民藝協会に入ってくれる人間を小石原でも増やしたいと考えていたのですがなかなか集まらなかったようです。バーナード・リーチが小鹿田に来たときに小石原の若手を連れて、歩いて小鹿田まで会いに行ったりもしたそうですが、それでも他の人にはなかなか受け入れてもらえなかったみたいです。
──小石原の他の窯元さんは民藝という文脈で意識してやられているところは少ないのでしょうか?
圭:あまり関係ないと思ってらっしゃる方が多いと思いますね。民藝という言葉を出してやっているところもうち以外はありませんし。私は意識していますが。公募展とかに出品するくらいでしょうか。
哲三:出品しているのもこの辺りでは、圭くらいだと思います。息子が継いでいるような窯元でも親の世代が民藝に興味がなければ、継いだ人間もそうなってしまいますからね。
IEGNIMにも登場いただいた鹿児島・龍門司焼の川原史郎さんや出雲・出西窯の多々納弘光さんなど、各地の民藝の窯元とも交流が深い哲三さん。かつては頻繁に勉強会や旅行に出掛けていたそう。ギャラリーには当時を懐かしむように写真が飾られている。
需要がないものをなくしてはいけない。
──お話を聞いていると小石原の中でも太田哲三窯は他とは違う存在なんですね。あらためてこれまでどんなことを大切にしてものづくりをされてきたんでしょうか?
哲三:やはり小石原焼は日常使いの器っていうのが一番の目的だと思うんです。 400年の伝統の中にある技術や装飾を継承して、それで日々使えるものをよりよく、また美しく見せるために、作りたいという気持ちが修行時代から今でもずっと変わらない想いです。
小石原は、以前は水かめとか大きいものが主だったんですけど、今は大きいものは需要がありません。でもなくしてはいけないと思うんです。今の時代に合わなくなってきたものでも作ることをやめてはいけない。やっていかないといけないということです。逆に時代に合わせたものを作っていこうとは思ってないんです。自分たちが作ったものを、 使う人たちが「これは何に使えるね」と言いながら使ってくれるのが一番だと思っています。だから、今の生活に寄り添うとか、奇を衒ったものを作ろうとかはないんです。
大物から日用雑器まで揃うギャラリー。伝統の「飛び鉋」や「刷毛目」「指描き」といった技法を用いた器たちはどれも用途に忠実で美しい。
一番は新しさより今までの仕事をやり続けること。
──これからの太田哲三窯の展望を聞かせていただけますでしょうか?
哲三:あらためて新しいものとか、違ったものを作れと息子にも言ってないですし、自分もそういうものは作ってない。今まで通りの仕事を繰り返しやり続けていけば、自分なりの新しいものになるのではないかと思っています。息子にもそのような形で作ってもらえると一番いいのかなと願っています。
──圭さんはいかがでしょうか?
圭:私も新しいものや売れ筋という視点で考えてないです。もっと奇抜な目を引くようなものを作ってほしいという声をいただくこともあります。そういうのは手っ取り早いアピールにはなると思うのですが、物よりも作った人間が前面に出るというのが自分は嫌なので。これは説明しづらいのですが、外からなんと言われようと流されない。自分の中にこれだという変わらない信念みたいなものがあるんですね。それは大切にしていきたいと思っています。
隣り合って作業する哲三さんと圭さん。ろくろに向かうお二人からは、ピンと張り詰めた空気が。親子でありながら、そこには職人としての師弟関係が存在することを感じさせる。
──圭さんの中に、自分は作家であるという感覚はないですか?
圭;ないですね。作家さんとか先生という感じは全くないです。なるべくそうでありたくないと思っています。やはり職人さんっていうのが、一番しっくりきますね。
──あくまで主役は器で自分は職人ということですよね。作家ではなく職人であり、陶工である。
圭:陶工はいいですね。響きがいい(笑)。
──とても大事だと思います。圭さんがどんな気持ちでものづくりに取り組んでいらっしゃるのかとても伝わってきました。本日はありがとうございました!
写真/大崎安芸路 (Roaster) 取材・文/阿久澤慎吾 (Roaster)