長い歴史の中で紡がれてきた日本各地の工芸。担い手不足が叫ばれる中、独自の視点で工芸の道を探究し、新たな価値観を生み出している作り手を訪ねる「Kougei Journey」。第四回目は日本有数の焼き物の産地「益子」の人気作家・寺村光輔さんに話を伺いました。
寺村光輔さんプロフィール
1981年東京生まれ。大学時代から陶芸をはじめ、卒業後の2004年より益子へ。若林健吾氏のもとで作陶を学ぶ。2008年に独立し、益子町大郷戸に築窯。以来、益子焼の歴史と技術を尊重しながら使い手の日常に寄り添ううつわをつくり続けている。
Instagram:https://www.instagram.com/kousuke.teramura/

春と秋には陶器市が開催され賑わいを見せる益子町。中心部を過ぎると美しい田園風景が広がる。
就職を選ばずに陶芸の道へ。
── 陶芸を始めたきっかけから教えてください。
大学1年生のときに陶芸教室に通い始めたのがきっかけです。大学に入ったものの、付属高校からの進学だったので、 どうしても勉強がしたいっていうわけではなかったんです。そんな時に陶芸と出会いました。
その教室で助手をやっていた方が、他の大学の学生だったのですが、使ってないアトリエがあるから「来たらいいよ」と誘ってくださって。その大学の美術部に入らせていただいたんです。電気窯とろくろがあったので、本を見ながら自分でつくるようになりました。

益子町独自の「大塚実基金」という陶芸家を支援する基金を受けられたため、資金の面でもスムーズに独立することができた。
── その頃には将来、陶芸家になると決めていたのですか。
就職活動もしていましたが、やりたいことも定まっていなくて。一方で陶芸は4年間ずっと楽しくやれていたので、これからも続けられると思ったんですね。その時は作家になるまでは考えていなかったのですが、就職は後からもできるので、今やりたいことを優先した方がいいのではないかと思いました。
想定外の不合格と修行時代。
── 益子に来たのはどうしてだったのでしょうか。
それまでに何度か益子には来ていて、空気感もすごく良いところだなと思っていました。それと無料の指導所があるので、そこでまずは勉強しようと思っていたのですが、落ちてしまったんです。
以前は別の作家さんが使っていた現在の工房。益子でも1番奥まっているところにあるが「静かで作陶するにはとても良い環境です」と寺村さん。
── 就職もしないと決めていたのに。それは困りましたよね。
まさか落ちるとは思ってなかったです。でも、卒業したら益子に来ると決めていたので、もう1年フラフラするわけにもいかず。作家さんや製陶所に見学させていただく中で、若林健吾さんのところに入れていただけることになりました。
── 修行は何年くらいされたんですか。
当初は3年と思っていたのですが、全然足りなかったですね。その3年間も仕事以外に、ろくろの練習や、釉薬や粘土の研究をしていましたけれど、技術的には独立できるものではなかったです。
4年目になって自分の知識や技術がついてくると、 もっとこうした方がいいんじゃないかと生意気ながら親方に言うようになるんですね。例えば、原土を使いたいとか。でも手間がかかるので、量を生産する工房では難しいんですよね。あとは、鉄がふいたような風合いが自分は好きなのですが、一般的ではないものなので、「それはここではできないから、独立してからやりなさい」と。そんなことが積み重なって、このままここで続けるよりも、外に出てやってみたいと思ったのが4年目で。あとはタイミングですよね。やっぱり先輩たちも大体5年で順番に抜けていくので、後輩が来て、自分もそろそろっていうタイミングで独立しました。

益子の粘土を6割以上使うと「益子焼」と謳えるが、寺村さんが良いと思う粘土は年々手に入りづらくなっているという。
濱田庄司以降に感じる益子らしさ。
── 独立するときに、益子以外の選択肢はなかったんですね。
それはなかったですね。出身は東京なので、たまに帰ると刺激があっていいなと思うんですけど、自分の強みを考えると、やっぱり東京で大学まで22年間過ごしてきた。その感覚を、益子でものづくりするときにいかしたいと思ったんです。── 寺村さんにとって益子焼とはどんなイメージだったのでしょうか。
益子焼はどんくさいというか、重くて使いにくいイメージがあったのですが、過去の益子焼を知っていくと、すごく洗練されている、今でもかっこいいと思えるものがたくさんあったんです。濱田庄司さん以降の世代の方たちがつくられたものですが、例えば村田元さん、木村一郎さん、佐久間藤太郎さんのものからは益子らしさをすごく感じます。そういうものが持っている熱量を自分なりに出せるようになりたいと思って。今も益子の粘土や釉薬を使っているんです。

工房に飾られている器。写真右は濱田庄司時代の作家で佐久間藤太郎作の柿釉の皿。左は寺村さんが10年ほど前につくった黒の青流しの皿。益子独特の「糠青磁」という青い釉薬を使っている。
自分の作るものに責任を持つ時代に益子の土だからこそ生まれる素朴さ。
── 益子で手に入るものでつくることにこだわりがあるんですね。
こだわりというよりは自然なことだと思っています。でも、粘土がどんどん手に入らなくなっているんです。業者の方が廃業されてしまったりして。それに益子には寺山白土っていう長年使われてきた特別な釉薬の原料があるのですが、それも採取場所が崖崩れの危険があるので採れなくなってしまった。今となってはもう幻の原料なんです。それが益子焼の独特な鈍さというか、風合を出すために欠かせないものなので、今はストックしているものを使いながらなんとかやっているのですが。

独立して16年ほど経つが、「ろくろにしても焼きにしてもいまだに良い時もそうでない時もある。一喜一憂しています」と寺村さん。
──寺村さんが考える益子焼の良さとはどんなところでしょうか。
原料にしても美濃とか瀬戸とか大きい産地に比べて、砂が多くてつくったら重くなってしまうとか、 薄くつくるのに適してないとか、粘り気がないとか、焼き物をつくる上で難しい面があるんですけれども。逆にその 雑味や素朴さみたいなものが益子の強みだと思っていて。それをいかに今の暮らしに合うようにつくることができるか。それができれば益子の良さがちゃんと伝わると思うし、長く使えるものになると思っています。それに、益子には僕もそうですが外から来た人間が陶芸に限らずいろいろな活動をできる土壌があると思うんです。
──確かに懐が広い感じはします。もちろん伝統は伝統であると思うのですが、みなさん自分のやりたいことを益子で実現している。陶器市でも本当にたくさんの方が出店されていてすごくそれは感じました。
陶芸家と言っても、ボーダーがないんですよね。お店に卸さないで陶器市だけで販売されている方もいますし、益子はこうでなければならないということもない。その自由さがいいのかなと思います。自分が独立した頃と比べて、ECサイトだったり、実店舗のお店も増えていますし、陶器市とか、クラフトフェアとかイベントに出店する機会もある。
益子の伝統である素朴な力強さがありながらも現代のライフスタイルにも寄り添う寺村さんの作品たち。
大きな転換となったSNSでの発信。
──SNSもありますもんね。
そうですね。やっぱりSNSがすごく大きな転換点になったと思います。以前は自分が置いてもらいたいお店にアポを取って営業して、そこで販売していただくというスタイルだったと思うんですけど。私も2015年からインスタグラムを始めて、個人で発信するようになりました。インスタと器は、すごく相性が良い。作家個人で宣伝をして、お客さんに知ってもらうことができるようになったのは、大きな変化だったと思います。
── 寺村さんのインスタグラムの写真も素敵です。
カッコいい写真を撮れたら楽しいかもしれないと思って、カメラを買って、自分で撮影するようになりました。もちろん実物を見ていただいたら、絶対写真よりも良いものになっているという自信はあるんです。その自分が考える良さが写真を通して少しでも伝わったり、残ったりすればいいなと思って投稿しています。

工房には薪窯が大小で2基。年に10回ほど窯焚きをしている。
── 大学生の時に始められた陶芸ですが、今も続けている中でどんなところにその楽しさを感じられますか。
ろくろを引いて、削って、素焼きして、 釉薬かけてという中で、 期待通りにいかないことの方がやっぱり多いんです。だけど、最後に薪窯で焼いて上がったのを見た時に、これはいいものだなっていうのがある。ここ5年ぐらい薪窯に挑戦しているんですけど、その薪窯で取れる一点ものというか。1つ1つ表情が違うものを見れるっていうのが楽しいですね。薪窯もそうですが今はやりたいことがたくさんあって、それを一つ一つ試している感じです。益子の土を使って、地元で取れる原料と釉薬を使ってつくるスタイルは変わらずに、自分が思う益子っぽさは残していけるように続けていきたいと思っています。
益子焼の魅力を残していきたいと語る寺村さん。現在はインスタグラムで投稿している写真の技術向上にも熱心に取り組んでいる。
写真/藤井由依 取材・文/阿久澤 慎吾(Roaster)

